
中村洋太さん。
海外旅行情報誌の編集者と海外添乗員として活躍している。
学生時代に横須賀から鹿児島への自転車の旅、ヨーロッパ11都市での和太鼓演奏を行う。
そして、大学4年生の夏、スポンサーを集めて自転車で西ヨーロッパ一周の旅を実現させる。
現在は「20代若者のための週末課外授業」という、
若者が楽しみながら教養を身につけていくためのコミュニティーを主催。
Facebookや
ブログでの発信を非常に大切にされており、
彼の誠実さと洞察力の深さがにじみ出た文章に、多くのファンがいる。
彼の好奇心旺盛さと行動力、そして人をつなげていく底知れない力の背景には何があるのだろう?
そんな思いからインタビューを申し込んだ。
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ーー小中学生の頃はどんな子でしたか?
中村洋太さん(以下敬称略):小学生の頃から活発な少年だったと思います。
サッカーをしたり、あてもなく町をぶらぶらしたり。
でも親の知り合いなどからは、「礼儀正しい子」とよく言われました。
母が地元のフリーペーパーを配達する仕事をしていたので、
小さい頃は大量のフリーペーパーと一緒に車の後ろに乗せられて、配達の手伝いなんかもしました。
たくさんの大人と接するなかで、自然と礼儀正しさが身についたのだと思います。
父は少し真面目で硬い性格でしたが、母は割と自由に好きなことをさせてくれました。
兄が二人いてそれぞれ12歳、9歳離れているのですが、
彼らから受けた影響が大きかったです。
長男は音楽が好きで大学時代オーケストラをやっていたのに対し、
次男は陸上が好きで大学時代まで長距離ランナーとして活躍しました。
ぼくはその頃まだ小学生です。
音楽とスポーツ、両極端の世界に小さい頃から親しめたことが
現在の自分のベースになっていると思います。

ーータイプの異なる二人のお兄様から吸収されていったのですね。
高校時代はどんな風に過ごされていたのですか。
中村:高校1年生の夏に、自転車の世界に魅せられました。
テレビでツール・ド・フランス(23日間でフランスを一周する自転車レース)を見て、
1日に200kmもの距離を走る選手たちに驚きを隠せませんでした。
すぐに市内の道路地図を引っ張り出して、自宅と高校の距離を調べたら、約15kmだったんです。
この距離ならぼくでも走れるかもしれないと思い、自転車での通学に挑戦してみました。
でも、自転車でそんなに長い距離を走ったことがなかったから、
どれくらい時間がかかるかわからない。
1時間半?いや2時間くらいかかるかも?と、本気で思っていました。
遅刻だけはしたくなかったですから、朝6時半に家を出て、必死でママチャリを漕ぎました。
最初から最後まで、立ち漕ぎでした。
高校に着いて、腕時計を見てみると、たったの45分で到着していました。
「え、電車で行くより早いじゃん」って。
この出来事は、ぼくにとってターニングポイントのひとつになりました。
「やったことのないものに対する人間の予想や想像が、いかにあてにならないものか」
というのを実感したんです。
ぼくはそれ以来、実際に体験したり自分の目で確かめたりしていないことについては、
断言できなくなりました。
あとは次男の影響もあり、高校時代からランニングが趣味になりました。
ーー今も出社前に皇居ランをされているそうですが、学生時代から走ることが好きだったのですね。
中村:そうですね。純粋に走ることが好きなのですが、何か考え事をしたいときとか、
悩みがあったときに走ることが多かったです。
一人になれる時間は大切ですし、何かストレスがあっても体を動かして汗をかくことで発散していました。
それに、走った後って必ず前向きになれるんですよ。
実は、大学2、3年生の頃までは、些細な悩み事すら友達に相談できない不器用な人間でした。
悩みや弱さをさらけ出したら、人に嫌われてしまうのではないか、という恐れを持っていたんです。
でも、悩みを溜めてしまうと精神面だけでなく、身体にも悪い影響が出ます。
だから、走ることでストレスを発散していたんです。
今はあまり抱え込まず人に相談することも大切だと思っていますが、
自分の力だけで耐え抜いた時期があったからこそ、
一度や二度の失敗では諦めないメンタルの強さや、
逆境を前向きに捉える力が得られたのだと思います。
ーー現在は編集者として「書くこと」を仕事にされていますが、
意外にも早稲田大学では創造理工学部だったのですね。
中村:小さい頃から数学が得意で、高校1年生の時に読んだ
『フェルマーの最終定理』という本に感動して、
本気で数学者を目指していた時期もありました。
大学では土木の学科に入ったものの、入学してすぐに
「なぜ土木を選んでしまったのだろう?」と呆然とするほど、
この学問に興味が持てませんでした。
だから、決して自慢できる話ではないのですが、授業中はほとんど本を読んでいました。
好きなのは司馬遼太郎や村上春樹の小説でした。
中でも司馬遼太郎の『燃えよ剣』に登場する新選組副長・土方歳三が放ったセリフに、
授業中一人で震え上がっていたことは、今でも忘れられません。
「男の一生というものは、美しさを作るためのものだ」というセリフです。
それ以来、「美しさの追求」が、ぼくの人生のテーマになっています。
本からの影響は他にもたくさんあります。
登山家の植村直己さんの『青春を山に賭けて』や、
指揮者の小澤征爾さんの『ボクの音楽武者修行』を読んで、
時間やお金のなさを言い訳にせず、海外へ飛び出した彼らの姿に背中を押されました。
大学時代に本から受けた影響は多大なものです。
ーー大学時代は、オーケストラサークルの一員として欧州11都市で和太鼓演奏をされたとのこと。
その経緯を教えていただけますか。
中村:長男が学生時代に「早稲田大学交響楽団」というオーケストラサークルに所属していたので、
どんなサークルなんだろうと思い、大学入学後にリハーサルを見学しに行きました。
そのとき、目の前で聴いた生演奏に大きな感動を覚えました。
「え、これが本当に学生の演奏なの?こんなに上手いの?」って。
それで、何か新しいことに挑戦してみたいという気持ちも手伝って、
初心者でオーボエを始めることになりました。
周りは経験者ばかりだったので、少しでも差を縮めるために毎日練習に明け暮れました。
そしてぼくが2年生になる直前に、サークルの全体集会の中で
「1年後に、ヨーロッパで和太鼓を叩きたい人はいませんか?」という募集があったんです。
実はこのサークルでは3年に一度、1カ月弱のヨーロッパ演奏旅行というものを行っていて、
次回の演奏旅行がちょうど1年後に控えていました。
もちろんクラシック音楽に和太鼓はありませんが、
コンサートプログラムの最後に日本人が作曲した
『和太鼓とオーケストラのための協奏曲』と『八木節』を演奏するというのが、
この演奏旅行の恒例行事でした。
ヨーロッパの人々は、日本文化に強い関心を示します。
「ヨーロッパで和太鼓を叩くなんて、かっこいいじゃん」という単純な気持ちで立候補しましたが、
正直なところ、「もう辞めたい」と何度も思いながら毎日練習をしていました。
先輩たちが上手なうえに、厳しかった。
でも、1年後の公演が控えているからもちろんやめられません。
ですが、ベルリンで2000人以上の観客の前で演奏し、
ブラボーの嵐と満員のスタンディングオベーションを受けたときの感動は、何物にも代えがたいものでした。
頑張ってよかった、辞めないでよかった、と心の中で泣いていました。

ーー達成につながった原動力は何でしたか?
中村:きっと、大舞台で拍手をもらい、魂がうち震える瞬間の映像をイメージできたことでしょうね。
ぼくは自分が想像できたことなら必ず実現できると思っているんです。
ーー「イメージの力」ですか。
自転車で西ヨーロッパを一周するためにスポンサー集めていたときも同じように?
中村:そうですね。自分が西ヨーロッパを走り切ってゴール地点に辿り着いたときの達成感や、
みんなから「おめでとう」と言われている場面を
克明に思い浮かべていました。
ヨーロッパで走りたい場所の写真と、自分が自転車に乗っている写真を、
コルクボードに貼り付けて撮影し、それを携帯の待ち受け画面にしていました。
毎日携帯を開くたびにその写真を見て、「夢を実現させた姿」を潜在意識に組み込むようにしたんです。
どうしても実現したいことをイメージすれば、
胸が震えるような感動がこみ上げてくるので、やらずにはいられなくなります。
「実現したらいいなぁ」という願望では夢は叶わないので、旅をする期間を具体的にして、
「実現するもの」と決めて行動を続けていました。
最近はよく早朝の皇居の写真を撮って、
Facebookで「早朝皇居ランしました。気持ちいい」というコメントとともに投稿しているのですが、
毎日のように続けていたら、それを見てくれた人から
「私も一緒に走りたいです」と連絡がくるようになりました。
これもひとつの「イメージの力」だと思っています。
「早朝に皇居を走る=気持ちいい」というイメージを、友人たちの潜在意識に刷り込むんです(笑)
自分が良いと感じたものを、周りに広めていければいいなと思っています。
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