2014年10月27日

静岡の大学の文化・魅力を掘り起こし発信する編集者 file.55

静岡時代.jpg

静岡県の大学で「学びたい!」を全国津々浦々の若者の常識にしよう。
そんな情熱を込めて大学生向けの情報誌『静岡時代』や静岡県庁と
静岡県の大学生による県公式SNS「静岡未来」などを企画・運営するNPO法人静岡時代
2005年に静岡県の大学生が立ち上げてから、今年で9年目。
少子化、グローバル化が進み、日本中から大学が消えていくなかで、
「静岡県の大学とはなにか?」「なぜ私たちは静岡県で学ぶのか」、
大学生自身の手で静岡独自の文化を掘り起こそうと日々、活動している。

最近は他府県の大学生からも
「もう少し早く知っていたら、静岡県の大学に進学したかった」といった声が届くなど、
確実に静岡県内いや全国にプレゼンスを高めていきつつある「静岡時代」。
ホームページから溢れだすバイタリティーの背景が知りたくて、
静岡市の編集部に見学へ。
なんとそこは、静岡県の大学生19名(2014年9月現在)と専任スタッフから成る少数精鋭の編集部だった。

学生時代から編集に参加し、卒業後である今も副代表として活躍されている
服部由実さんにお話を伺った。

☆☆☆☆☆

――『静岡時代』について教えてください。

服部由実さん(以下敬称略):「静岡時代」は、静岡県の大学生がつくる
静岡県の大学社会最大の学生メディアです。
毎号一万部、静岡県内の全ての大学(浜松医大をのぞく)で配布している雑誌『静岡時代』や
静岡県庁と静岡県の大学生が共同運営している県公式SNS「静岡未来」、
主に高校生へ向けて静岡県の大学生の学びのいまを伝える
静岡時代のWEB版「シズオカガクセイ的新聞」の企画・制作を行っています。
これらのメディア制作を起点に、県内大学生全体の専門知を集めて地域の社会課題に取り組み、
その成果によって、静岡県のプレゼンスを向上させ、
静岡県を次世代の若者が憧れるかっこいい場所にしていこう、という学生発のNPO法人です。  

2013年、静岡県は人口転出者数が全国ワースト2位でした。
静岡時代が行った大学生意識調査でも、
静岡県の大学生であることにコンプレックスを感じる大学生は6割を超えます。
私自身も、学生時代「なぜこの大学で学んでいるのか」を
自信もって言葉にすることができなかったんです。
これは静岡県の大学生に限った話ではないと思います。
大学の友人にも先生にも恵まれていて学生生活は楽しい、でもそれでも足りなかった。
よく「静岡の大学は自然がいっぱいなところが良い」という学生はいますが、
それって「この大学ならでは」ではないですよね。
就活中に知り合った東京の有名大学の人たちに、「どこの大学?」と聞かれたときも、
大学名を言うのに躊躇いがありました。
自分が静岡県の大学で、そのなかでも静岡県立大学で、
そのなかでも国際関係学部で学んでいるのはなぜか、
自信を持てていなかったことが寂しかったし、悔しかったです。

――寂しさや悔しさがあったのですね。

服部:少子化やグローバル化により大学の存続が難しいいま、
50年後も静岡県に大学はあるのか?
これが静岡時代の静岡県の大学社会、地域社会、そして自分たちに対する問いかけです。
本来、大学はその地域の将来を真剣に考え、その運営に携わる人材を育成する場。
もしも静岡県に大学がなくなってしまったら、地域における学びの文化、
その威信が著しく低下してしまいます。  
静岡県に大学があって、そこで大学生が学ぶことの意義と、
静岡独自の大学文化を自ら掘り起こし、言葉にしていかなくてはいけない。
何より静岡県の大学生であること、静岡県の大学生であったこと、
静岡県の大学に誇りを持てるって嬉しいこと。
いまの静岡県の大学生やこれから後輩になる人たち、地域社会が、静岡県に大学があって、
大学生がいてよかったと思ってもらえるような学びの社会をつくりたい。
そのために、大学生のメディアや出版物の制作、静岡県内のネットワーク構築、
大学生の県政をはじめとした社会参画、高校生への大学PRを行っています。
そしてもうひとつ。「静岡県で学びたい」と集まった人たちを卒業後も静岡県で働きたいと思えるよう
県内企業と大学生による大交流会にも力を入れていきたいですね。

――『静岡時代』の編集部に参加しようと思ったきっかけは何でしたか。

服部:大学2年生のとき大学構内で『静岡時代』を手に取ったことがきっかけです。
ちょうどその頃は、大学生活が1年経って、「大学」というものに慣れ始めた頃でした。
同時に、「大学生ってもっとすごいと思っていた」
「大学ってもっと何かできるところじゃないのかな?」とモヤモヤを抱えていました。
高校生の頃の自分と大差なくて、変わりたいと思っていた時期です。
そんなときに、『静岡時代』を見て、まず単純に「すごい」「かっこいい」と思いました。
雑誌まるごと一冊を大学生がつくるなんてすごくないですか?
よく見ると県内のいろんな大学から集まって活動しているし、刺激がありそうだなと思って、
編集部に入ることを決めました。
もともと文章を書くことも好きでしたしね。

ーーそんな思いがあったのですね。
『静岡時代』は毎号のテーマの切り口が斬新で、
一つ一つの記事が入念に取材・リサーチされていると感じました。
学生の心に響く記事をつくるための、企画・文章の秘訣を教えていただけますか。

服部:文章を書くのを、苦に思ったことはなかったのですが、
静岡時代に入って、初めて企画や文章表現の難しさや苦しさを知りました。
文章って書こうと思えば書けてしまうけど、
相手に伝えて、相手の感情を揺さぶるような、動かすようなものを書くことは本当に難しいです。
企画も同じです。
静岡時代が、企画でも執筆でも一貫して大切にしていることは、
「自分の知っている知識だけで書かない」「自分の主張をもつこと」「読者を想定すること」の3点です。
その企画の意義、読者にどんな価値が残るか、誰のための、何のための文章なのか、
読者をどう動かしたいのか、をひたすら考え、編集会議で揉んでいく。
編集部員一人ひとりが読者になって、それぞれの視点と掛けあわせて、
アイデアをブラッシュアップしていきます。
企画、取材、執筆のいずれにおいても、「今の自分の価値観を越える」ことが求められるんですが、
難しいし苦しい分、それができた時は本当に嬉しいです。
静岡時代に入って、伝えるって面白いなと思いましたね。
本当に奥深くて、まだまだ勉強中です。

――『静岡時代』の編集部に入られてからはどんな体験が待っていましたか。

服部:学生時代はとにかくつくることが楽しかったです。
もちろん苦しいこともありましたし、失敗もたくさんしました。
先生に注意されたこともありますし、社会人の方と就職イベントを企画したときは、
求められていたもの(集客)に対する認識に差があって、悔しい思いもしました。
でも、そうした普段の大学生活では出会えないような人に会えるので、
常に新しい学びに満ちていましたね。
それに「伝える」ということに関して、編集部で学んだ文章の書き方や誌面構成、
企画の立て方は大学の課題やゼミにも応用できて、卒業後の今でも役に立っています。
私にとって、本当にもうひとつの「学校」のような場所でした。
一番嬉しかったのは、他府県出身で、私と同じ静岡県立大学に通っていた学生が
「静岡の大学に進学して、そこに静岡時代があってよかった」と言ってくれたときです。
学食で『静岡時代』を配っているときに、声をかけてくれて。
「自分にはない価値観を教えてくれるし、他の大学にはないから」と言ってくれました。
『静岡時代』が誰かにとって、もちろん私自身にとっても、
静岡県の大学で学ぶことの魅力につながっていることが実感できて、すごく嬉しかったですね。
今でもその言葉は支えになっていますし、そう思える人を増やしていきたいと思っています。

ーーそれは嬉しいですね。大学を選んだ意義を感じるきっかけになったのですね。
今は、もう卒業されて事務局として働かれていますが、
大学卒業後すぐに『静岡時代』に専属で働く道を選ばれた理由を教えていただけますか。

服部:シンプルに「静岡時代をこれから先も静岡県の大学に残していきたい」というのが理由です。
静岡時代は学生団体で、「卒業」という学生の入れ替わりの激しいなか、9年間続いてきました。
よく続いてきたよなと思います。
その背景には、創刊当時からお世話になっている方の存在があります。
出版のプロで、外部のブレーンとして文章の書き方や雑誌のつくりかた、組織の在り方まで、
多くのことを教えていただいています。
いつ潰れてしまってもおかしくなかった小さな学生団体をこれまで支えて、
可能性を最大限に引き出してくれていて、感謝しているんです。  
でもその一方で、学生は4年で卒業していきます。
仮にブレーンの方がいなくなってしまったら、
誰が支えることができるんだろうと。
寄せられる期待も責任も大きくなってきて、卒業生にもっとできることってないかな、
私にできることってなんだろう、と悩んだ結果、学生を支える立場を選びました。
学生だったからこそできなかったことをやろう、と。
いまは、私を含めて卒業生3名が3年前から運営に携わっています。
実活動の主体は大学生であることは変わりありません。
学生が4年でメンバーが入れ替わり、団体としての継続性をどう保つか?という課題も常にあります。
現役生を支えながら、事務局である私たちは、学生が変わらず活動を続けられるよう、
静岡時代の可能性を広げ、着実に実績を積み上げていけるように、
賛助会員やご寄付といった「支援者(仲間)」を増やすことや研修の場づくり、
団体のブランディングなど運営基盤を整えることを今は重要視しています。

――進路について悩むことはなかったですか?

服部:はじめは企業に就職することを考え、就活もしていました。
ありがたいことに内定もいただいて。
でも、意志が弱いと感じられるかもしれませんけど、もしも他社の仕事を始めてしまったら、
「静岡時代のために何かしたい」という思いや危機感が
薄まるんじゃないかと怖かったんです。
愛着はなくならないだろうけど、リスクを冒してまで行動できるかどうか分からなかった。
だから、自分にプレッシャーをかける意味でも、今しかできないことをやろうと決めました。
家族は、はっきりは言わなかったけど企業に就職してほしいと思っていたと思います。
正直今も心配していると思います。
でも、「静岡時代をやる」「つらくても好きなことを仕事にしたい」と決め、
家族に話して認めてもらったとき、これだけは守ろうって決めたことがあります。
健康で、生活するだけの少しのお金があって、私が幸せであること。
2つめが今一番心配なんですけどね(笑)。
家族や周囲の人たちからの応援があってこそ今ここにいれるので、
しんどいこともあるけど本当に幸せだなぁと感じます。
その分、いまお世話になっているみなさんに恩返しがしたいんです。
私や静岡時代をみて、安心してほしい、応援して良かったって思ってもらいたいです。
正直、学生時代は「この活動って誰にどんないいことがあるんだろう?」というのが分からないまま、
とにかく「かっこいいものをつくろう」と続けてきました。
静岡時代は来年で活動開始から10年です。
50年、100年先も静岡時代を積み上げて、「静岡時代」の存在そのものが、
静岡県の大学や地域へ人を呼び込むようなものになったら、嬉しいですし、
静岡県の大学社会の文化や財産になればいいなぁと思っています。
だからこそ、「静岡時代」に参加できる人を増やし、
高校生や県内外の大学生、地域の方々と静岡時代をつくっていきたいです。  
ちなみに、今年の日本フリーペーパー大賞に雑誌『静岡時代』がエントリーしました。
10月から読者投票がはじまるので、ぜひよろしくお願いします。
毎日投票できますのでぜひ(笑)。

ーー日本フリーペーパー大賞、応援していますね!
代表の鈴木智子さんにも、これまでどんな思いで代表をされてきたのかお聴きしていいですか。

鈴木智子さん:私が学生時代に編集部に入った頃は部員数も安定せず、
一時は5人くらいまで落ち込んだ時期もありました。
それからは自分たちの活動を知ってもらい、協賛や応援を募るために外へ外へと開拓していきました。
私も服部と同じように、この活動を続けられる環境を後輩に向けても残していきたい、
残さなくては、と思っていたので、今も引き続き静岡時代のコンセプトに共感して、
雑誌を作りたいという仲間が集まる様子を見て、続けてこれて本当によかったと思っています。
今は雑誌づくりから発展した活動も目白押しです。
実は今日も、静岡県の事業レビュー(旧:仕分け)に参加していました。
静岡県では一般県民からも評価者集めているのですが、
今年は大学生が50名も評価者として参画していたんですよ(実は日本初の取り組みです)。
この大学生評価者を誕生させようという一大プロジェクトに静岡時代として参画し、
私は担当課の方と1年ほど打ち合わせを続けてきました。
当日、緊張しながらも自ら発言する学生の姿を見て、
地域の中で大学生が大きな存在感を示すひとつの契機になったと感じています。
今年の大学生評価者の中から有志が集まって、今後も同レビューなどで継続的に活動する
『ふじのくにづくり学生研究会』も立ち上がりました。
研究会もまだまだこれからですが、とにかく静岡時代は、
みんなのアイデアを持ち寄って何かをつくるのがわりと得意なんだと思います。
一人だけでは成し得なかった広がり、ムーブメントを静岡発でつくって
地域を盛り上ようという試みです。
地方の大学の意味って何?という漠然としたイメージをもつ学生たちがもう一歩、
行動を起こすきっかけを作っていきたいと思います。

☆☆☆☆☆

インタビュー当日は服部さんとお話させていただいた後に、
代表の鈴木智子さん、大学生の編集担当の山口さんにもお話を伺うことができた。
服部さんたちのお話を伺って 編集の傍ら、スポンサーの開拓、イベント運営など
パワフルに活動されている背景には、
言葉にしきれないほどの「雑誌をつくることが好き」という情熱と、
「静岡の大学生が自信をもって、静岡の大学でよかったと言えるようにしたい」
という使命感があるのだと感じた。

『静岡時代』の企画書を拝見したところ、
記事ごとに企画意図や工夫、思いについて文字がギッシリ書かれていた。
編集者一人一人のプロ意識がこんなところにもにじみ出ている。
こうした強い思いと実践が、『静岡時代』のファンの増加につながっているのだろう。

服部さんの「つらくても好きなことを仕事にしたい」という言葉には非常に共感したし、
「好きなことを仕事にする勇気が踏み出せない」という人に
この記事をぜひ読んでほしいという思いでいっぱいだ。
posted by メイリー at 02:32| インタビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年10月13日

「心で感じる」大切さを伝える絵本セラピスト file.54(後編)

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ーーこうした自分との向き合い方の変化は、
他のカウンセラーや本の影響ではなくご自身で気づかれた形だったのですか。

松原:そうですね。私って体験派で、
自分が体験してから本を読むとストンと腑に落ちるタイプなんです。
だから本や人の影響ではなく、自分で考えたり感じたりして見つけていったという感じですね。
この経験で「人は変われる」と知り、まわりの人から相談を受けることが増えました。

ーー心理カウンセリングを仕事にしようと思ったきっかけは何だったのでしょう。

松原:「人生を変えていく力」って面白いなと感じたんです。
私の経験が他の人にとって参考になるならいいなと思って。
カウンセリングでは、どこか「客観的に全体像を観る自分」が存在していて、
相談者の態度や表情、ちょっとした動きを敏感に見ながら、
「自分について考えてもらう」お手伝いをしています。
自分について考えるのは「心の掃除」なんですよね。
心の掃除ができてくると、次に何をしたらいいか人は探せるようになるんです。
自分がなくなってしまうほどの地獄を見た経験があるから、
他の人の相談にのっていてもしんどくならないんですよね。

ーー絵本セラピストの活動を始めてから、印象に残った体験ってありますか。

松原:中学校で子どもたちと過ごしていた時ある日突然、
生徒ほぼ全員から無視されたことがありました。
「なんでこんなことに?」と思い返したら、
これまで「人の相談にのってあげるよ」という上から目線の接し方が間違ってたんじゃないかと気づいた。
翌日、考え方を改めたことを口にしたわけでもないのに、
これまでどの先生にも心を開かなかった子が「相談のってくれるん?」と話しかけてきて、
他の子たちも近寄ってくれるようになった。
心って、言葉を介さなくても伝わるんやね。
私の醸し出している雰囲気が変わったんだと思います。
一人だけどうしても心を開いてくれない生徒がいましたが、
卒業式の日、胸につけていた花のバッチをつけてすぐに立ち去っていった。
あのときは泣きましたね。
心は開いてないけれど、多少は私のことを認めてくれたんかなって。

ーー心の中って、言葉以外のもので伝わるのですね。
そこから絵本の授業を始められたとのことですが、
松原さんが作られた「自分と対話する絵本」はどんな内容なのですか。

松原:プラスの声とマイナスの声が登場するんです。
例えば『ひとつあるもの』という作品では、暗闇と、色んな色に変わっていく光が対話していきます。
絵本は自分と対話してもらうためのツール。
子どもたちに「今思ってることを話して」と呼びかけても、彼らはなかなか言葉にしない。
でも授業で音楽を流しながら物語の映像を見せて朗読すると、
その後、物語の内容と関係がないのに子どもたちは
みんな色んな形で心の中にあったものを語り出すんです。
いじめをしていた子は突然「今日から(いじめを)やめる」と言い出すし、
いじめられていた子は「明日から変わる」と言い始めた。
心が違う角度から刺激されて震えたときって、人は自分の思いを吐き出せるんですね。
10年前に『ひとつであるもの』を学校の先生方に見せて授業の構想を話した時は
「こんな抽象的なストーリーじゃ無理」と言われましたが、
私自身が想定しなかったような変化が子どもたちの中に起こっていますし、
その様子を見て「この絵本を授業に取り入れたい」という先生も増えてきました。
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絵本には色んなメッセージをそれとなく埋め込んでいます。
例えば「イヤな自分を嫌いにならないでほしい」というメッセージ。
尊敬しているお坊さんに「嫌いな自分を持っていてもいい。
使わなければいいだけ」と言われてすごく気が楽になったのを覚えています。
嫌いな自分を見ないフリをすると辛くなる。
「なんでイヤなんだろう?」と自分に問いかけ、
マイナスだと感じたら、ゆっくり克服すればいい。
「楽しい」には嬉しい、悲しい、苦しいも含まれている。
だから、つらいことがあっても、ひっくるめて「楽しい」になる。
そんな風に心の持ち様が変わると、運が良くなるんですよね。
心が爽やかでクリーンなときって、いいことを呼び寄せると思いませんか。

ーーたしかに、心が晴れやかだと、いいことが巡ってくる気がします。
色んなメッセージが埋め込まれた抽象的な絵本だからこそ、
子どもたちの中で色んな「気づきと変化」が起きるのでしょうね。
こうしたストーリーはどんなときに思いつくのですか。

松原:突然ひらめくんです。
『ひとつあるもの』も、言葉と映像が一気に湧き上がってきた。
私が体験してきたものが絵本になってくるのだと思います。
子どもたちにも、こころ館のメンバーにも「心で感じてみて」とよく言うんです。
頭と心のバランスが大事で、頭でばかり考えようとすると、
つい唯一の正解を導こうとしてしまう。
でも心を使うようにすると「私はこう感じる」という風に正解を探さず、
ありのままの思いに素直になれる。
そして、想像力が働いてくるようになるんですよ。
「心で感じた」ときに溢れてくるものがあると思っています。

ーー心で感じる時間、私も少なくなっていたような気がします。
こうした活動をモンゴルやミャンマー、そしてカンボジアにも普及させようと
海外に目を向けたきっかけはありましたか。

松原:絵本セラピー授業の可能性や効果を感じる中で、
物資支援にばかり目がいきがちな途上国にこそ、
心の豊かさにつながる授業を届けたいと思うようになりました。
これまで20回近くカンボジアを訪れて孤児院で絵本の読み聞かせや本の寄贈をしていましたが、
学校現場で授業をさせてもらったのは今夏(2014年9月)が初めてだったんですよ!
それだけ学校現場に入っていくのは難しいのですが、
大学生たちの手で授業が実現されたときは本当に嬉しかったですね。
国を超えて何をカンボジアの子たちに伝えられるだろう?ということを考えながら、
互いに学び合っていきたいと思っています。
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ーー今後のビジョンを教えていただけますか。

松原:最近は中高の出前授業やキャリアカウンセリングにくわえ、
大学生向けキャリア支援やワークショップ、講演の仕事も増えてきましたが、
企業向けの社員研修にもっと関わっていきたいですね。

ーー最後に、セラピストや心の支援に携わる仕事に就きたいと思っている人に向けて
メッセージをお願いします。

松原:大人も子どもも自分を置き去りにしている人が多いので、
自分とのつきあい方を考える時間が大切だよと言える人になってほしいですね。
この時間をおざなりにすると、人との絆を大事にすることが難しくなってしまいます。
あくまで最終ゴールは、内観ではなく「人とつながること。」
そのステップとして自分と向き合うために、
こころ館の授業にぜひ参加してほしいなと思います。

☆☆☆☆☆

部屋に入るなり迎えてくれたのは、松原さんのお日様のような笑顔。
まわりの人たちの心を和ます快活な関西弁。
松原さんを囲むこころ館のメンバーたちも優しい笑みを浮かべている。
「こころ館」の包み込まれるような雰囲気に、自然と心が穏やかになっていく。

過酷な状況に遭遇するたびに
自分自身ととことん向き合い、自分の心を見つめてきた姿に、何度も胸が熱くなった。

だからこそ、彼女の言葉の一つ一つや、絵本の朗読が織りなす世界観が、
子どもや大人の心にあったわだかまりを溶かし、
心を解き放ってくれるのだろうと、強く感じた。

「苦しい」や「悲しい」がまじりあった「楽しい」を堪能している彼女は、
まわりの人たちへの慈しみに満ちていて、
そんな彼女を応援したいという人たちが次々に集まってくるのではないだろうか。


折しも岸見一郎さんの著書『嫌われる勇気』を読んでいたのだが、
松原さんは岸見さんとも一緒に講演などをされているとお聞きした。

「自己肯定ではなく自己受容」という言葉と、
松原さんのお話は密接にリンクし、私の心に光を投げかけてくれた。

「心で感じる」時間をもっともっと大事にしよう。
そう心に誓った、かけがえのないひとときだった。
posted by メイリー at 23:46| インタビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年10月09日

「心で感じる」大切さを伝える絵本セラピスト file.54(前編)

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松原あけ美さん。
心理セラピストとしての経験を活かし、「自分と対話」するための絵本を製作。
絵本セラピストとして「自分の心と向き合う体験」を届けている。
子育て相談や個人セラピーを、小中学校では絵本セラピー授業を、
大人向けには絵本を使った講演などを行い、
自分の本当の心と共に生きることの大切さを伝えている。

現在は一般社団法人こころ館を立ち上げ、
2011年に出版した「母なる木」という作品を
中高生から大人までに使用し、自分と対話し生き方について考える授業・研修を行っている。

企業向けにも「絵本を用いたワーク」を取り入れた新人・若手社員研修を実施。
メンタルヘルスの問題解決にも力を尽くしている。

子どもだけでなく、大人の心を解き放つ力が
松原さんが製作する「自分と対話するための絵本」に詰まっているのではないだろうか?
私の中にあった「絵本の可能性を探りたい」という気持ちが刺激された。
中学校のとき、友人が創ってくれた絵本に
心が癒やされパワーをもらった経験があったためだ。

絵本セラピストになられるまでの道のりをお聴きしたいと思い、
京都の清水寺の近くにあるオフィスを訪れた。

☆☆☆☆☆

ーーセラピーに絵本を取り入れるようになったきっかけは何だったのでしょうか。

松原あけ美さん(以下敬称略):2003年から心理セラピストの活動を始め、
子どもたちの相談に乗っていたのですが、
子どもたちはなかなか本当の気持ちを語ってくれないんですね。
ちょうど物語を書き始めていた時期で、
絵本を読むと、子どもたちが思いを表現するようになって、絵本の可能性を感じ始めたんです。
ポピーでこうした内容を連載していたら
編集者の人に「絵本セラピストってかっこよくないですか?」と言われたのを機に、
「絵本セラピスト」と名乗るようになりました。
ココロカン3‗母なる木.jpg

ーーそこから自作の絵本を授業に取り入れるようになったのでしょうか。

松原:中学校に入らせてもらい、掃除や給食、授業中に子どもたちと一緒に過ごす中で
「言いたいけど言えない」という課題をもっていることがわかりました。
それを京都教育大学附属京都小中学校の先生に話すと、「面白いね」と言われ、
自作の絵本を道徳教材として1年間授業で使用することになったんです。
劇もあって、かなりのスペシャル授業やったと思います。
それがきっかけで、カウンセリングルームをアレンジし、
2007年には、日本初めての心の部屋「絵本セラピールーム」ができました。
悩みがある子もない子も、保護者も先生も立ち寄れる場となっています。
この部屋は家庭と先生の架け橋でもあり、子どもが問題を抱えていたら
一緒にその解決策を考えていくことを大事にしています。
気になる子がいたら教室にも見に行ったり、声を掛けたりしていますね。
絵本だけでなく、ゲームや塗り絵も置いてあり、好きなもので遊べるようになっています。
アロマを焚いてBGMを流しているんです。
リラックスできて開かれた場所になるといいなと思っています。
ココロカン4‗セラピールーム.jpg

ーーカウンセリングルームは増えてきていますが、
アロマやBGMつきのお部屋はなかなか珍しいですね。
松原さんは小中時代、どんな子だったのですか。

松原:走るのが速くてリレーではいつもアンカー。
男の子と野球をしたり基地を作ったりザリガニ釣りをしたりとおてんばな子でしたね。
中高は私立一貫校に通っていたのですが、
授業はまったく好きになれず、教科書を机に出さないとか、
教科書で隠してお弁当を食べるとか、反抗的な生徒だったと思います。
でも、何事にも挑戦するという姿勢ができたのは、
同じ学校以外の生徒とも目一杯遊んだ経験があったからだと思っています。
唯一好きだった授業は女性史。
クレオパトラや西太后、マリー・アントワネットなど、
世界の女性の中で、好きな人物について調べてレポートを書き、
クラスメートたちと共有するという内容でした。
興味のある人を自由に調べられるのが好きだったんです。
あとは先生が好きでした。
所属していた創作ダンス部の顧問だったこともあり、
私の良い所も悪い所も認めて、受け入れてくれる人だったんです。
中には、「手に負えない子」だと思っていた先生がいたと思います。

ーー反抗心もあったのでしょうか。

松原:ありましたね。
ある先生から「死んだ魚のような目をして授業受けてるね」と言われたことがあって。
今でも強く覚えています。
「これをやりたい、これが好き」というものを見つけられないまま、
短大では経営学部に入って、これまた授業に興味を持てない日々が続きました。

ーー大学時代に印象に残った出来事や経験ってありますか。

松原:父の会社が上手くいかなくなったこともあり、20歳のとき、短大を中退して、
長野県のペンションで住み込みのアルバイトを始めました。
知り合いすらいない新しい環境で自分の力を試してみたかったんです。
帰りの切符を買ってしまえば、過酷だとすぐに帰りそうなので、
片道切符だけ買って長野へ立ちました。
そしたらオンシーズンのある日突然、経営者もシェフもとんずらして
私たち学生アルバイト4名だけが残されたんです。
でも満室で、お客さんを放っておくわけにはいかない。
見よう見まねでフランス料理を作り、掃除から喫茶のウェイターまで
一人何役もこなしました。

ーーとんずらとは…!
そんな過酷な状況でもお客さんたちのために頑張れるってすごいことだと思うのですが。

松原:お客さんたちの予約は入っているし、責任感からみんなで一致団結したんでしょうね。
「誰かに頼らずに自分たちで何とかしなきゃいけない」という境遇にあったことは、
私の人生のターニングポイントだったと思います。
ペンションの仕事が終わった後は、「手に職をつけなきゃ」という思いに駆られ、
パソコンの入力をする会社に入りました。
その後大阪の広告代理店の事務職になったですが、
働く時間や場所を縛られるのがすごく嫌なんだと気付き、
3ヶ月ごとに新しい会社に行ける派遣の働き方を選ぶようになりました。
色んな社風を見られたのは楽しかったですが、事務は向いてなかったんですよね。
そんな生活を3年続けていたら、家の商売が倒産し、当時の彼氏とも別れるという
「全てをなくす経験」をしました。
こんな私に何ができるだろう?と考えた挙句、
高校時代からシャガールなどの絵を観るのが好きだったことを思い出し、
絵に関わる仕事に就きたくて、ヒロ・ヤマガタという画家の日本事務所に入り、
百貨店での絵の販売の仕事を始めました。
1枚100〜300万なんてザラな世界ですから最初は全然売れなくて…。
「もう辞めよう」と開き直った日に、飾らずに正直な接客をしたら
ようやく1枚売れて、そこからトップセールスになっていったんです。
そこで「あ、私って販売は向いてるんだ」と気づいて。
201409松原さま6.jpg

ーーそんな大きな変化があったのですね。要因は何だと思いますか。

松原:「売らなきゃ」と思わなくなったのがよかったのでしょうね。
売れる経験が自信になって、「自分はダメだ」という思い込みがなくなったのも
好影響だったと思います。
どんな人なら買ってくれそうかを見抜く洞察力も磨かれていきましたね。
その後、結婚をして、子育ての最中に転機がやってくるんです。

ーーどんな転機でしょう。

松原:私は長女ということもあり、あまり泣き言を言わないタイプだったのですが、
大変なことが重なり、うつやパニック障害、過呼吸の症状に見舞われました。
少し外に出るだけで目が回るし、脂汗をかく。
そのときは息子が3歳くらいでしたが、子育ての記憶もほぼないくらい辛い日々でした。
ですが、心の病は自分の心と向き合うきっかけを与えてくれた。
「心ってどこにあるんだろう?」、「とことん心を覗いてみよう」って。
自分の思っていることをノートにひたすら書き出すようにしたら、
外に見せている自分と、内側の自分とのギャップが激しいことに気づきました。
当時はお金の余裕がなく、他人への妬みなど、心の中が泥々になっていた。
2年間、心を見つめてノートに書き出すことで
「こんな不幸な考え方じゃあかん!」という気づき、
心の病気をつくったのは自分なんだと客観視できるようになってきました。
その頃から、いいカッコせずに等身大の自分でいられるようになってきて、
自分の良い部分も醜い部分も共にあるのだと思うようになりました。
事あるごとに「今の私でいいの?」と一人で見つめ直す時間をとっていますし、
「立ち止まって感じる時間」をとると、リセットされて、新しい考えが生まれてくるんですよね。

★後編につづく★
posted by メイリー at 21:29| インタビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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