2014年12月07日

社会の課題解決に「教育」の力で立ち向かう若きイノベーター file.58(後編)

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☆前編はこちら☆

ーー壁を乗り越えた経験だったのですね。
定時制高校に入ってからどうでしたか。

米澤:入学すると、当初想定していた生徒層とは違う子がたくさん来ており、最初は少し驚きました。
片親の家庭であるとか、家庭が荒れているという生徒も多く、そうした世界を知れたことは貴重でした。
ただ、高2になって、まわりと話があまり合わないなぁと気づいたんです。
夜間に学校に通い、日中は西宮サドベリースクールのスタッフと飲食店のアルバイトを掛け持ちするという生活でしたが、
だんだん学校に通う意味がわからなくなってきて。
プログラミングや簿記も一斉授業で学ぶより、独学した方が効率的。
もっと色々な高校生に接してみたい。
そんな思いで見つけたのが、高校生がスポンサーをつけて
イベントを運営している関西高校生文化祭という団体でした。
参加したおかげで、灘高に通う子や早慶に行って起業を目指す子など、
非常に優秀な高校生たちに出会うことができましたね。
「学ぶ意欲が高い子と、勉強が嫌いな子の差はどこからできるのだろう?」
という問いも生まれました。

ーー米澤さんの好奇心と課題意識の広さや深さに今圧倒されているのですが、
どこから湧いてくるのでしょう。

米澤:自分がもつ関係性の狭さに風穴を開けたいという思いからです。
まだまだ知識が足りないし世界を知らない。
一つ興味をもって調べると、また新たな興味や疑問が派生していく。
あとは自分の特性上、「理屈で考えている」ときは行動につながらないんです。
本当にやりたいときは考えこむ前に、直感で動き出している。
D×Pのインターンも、気がづいたら応募していましたし。
実は大学に通おうかと検討していた時期があるのですが、
ある大学の授業とゼミに潜りで参加させてもらいもしましたが、
今は通う時期ではないなと直感しました。
もちろん大学で4年間学びたいことを追求できるのは魅力的です。
ですが、僕が今学びたいのは、ある社会問題を解決するという目的のための学問。
「社会をこんな風に変えたい」という視点に立っているので、単一の学問を修めるより
もっと複合的に学んでいきたいという気持ちが大きかったんです。

ーー本当にやりたいことなら、頭であれこれ考える前に
直感が教えてくれるのですね。
社会問題を解決したいという思いについて、もう少し詳しく聴かせていただけますか。

米澤:関西高校生文化祭というイベントに携わり、色々な人にお会いしたりする中で
グローバル経済や格差社会の問題にふれ、
社会に対する「なんで?」という疑問を流したくないと思ったんです。
こうした問題の根っこには、コミュニケーションの問題が横たわっていると思っていて。
普段、サドベリーの広報をしていて、伝えることの難しさを感じることが多々あるのですが、
言い方一つで相手の受け止め方は変わるし、受け止め方自体も相手によって違います。
文化が違えば、この受け止め方の多様性はもっと幅が出ますし、
世界の政治や経済の問題も、コミュニケーションの不毛さから生まれるのではないかと感じ始めました。
まずは「今この世界で何が起こっているか」を知るには過去を知らなくてはいけないと思い、
政治や経済史、歴史、哲学…色々な本を読んで、
その知識や知恵が課題解決にどう役立つのかを考え続けています。
直近では手塚治虫の『火の鳥』からも人間や社会の本質について
非常に多くのものを学び、感銘を受けているところです。

ーー米澤さんにとって、コミュニケーションの課題は大きなものなのですね。

米澤:そうですね。コミュニケーションの不毛さは親子間にも生じていると考えています。
実は僕自身、父親との関係でコミュニケーションの課題に直面していました。
例えば自分が何かをやりたいと言って、許可してもらえないときに
「なぜダメなの?」と尋ねても、理由を説明せず
「俺が養っているんだから」の一言で片づけられることがありました。
一方通行なコミュニケーションへの歯がゆさを感じていたからこそ、
こうした不毛さを解消するために何とかしたい。
そんな思いから、この秋には子育てイベントを実施しました。
親御さんに、サドベリー教育のエッセンスをお伝えし、
色んな教育観や学校の選択肢があることを知っていただき、
それぞれの子どもにとって良い環境で育ってくれるなら本望ですね。
単一の物差しで評価される社会は生きづらいし、もったいないですから。

ーーD×Pのインターンシップに参加されてみてどうですか。

米澤:当初、直感的にこのインターンシップに弾かれたのは、
自分も定時制高校に通っていたことや、
広報スキルを身につけたいという思いと一致したというのがあります。
実際にキャリア教育プログラムのクレシェンドという授業に参加していると、
自分より少し若い高校生たちとふれ合うのがとっても楽しくて。
深いテーマで話せる高校生も多いですし、彼らから学ぶことも多いんです。
「色んな生き方がアリ」だと伝えられる場があるって素晴らしいと思いますし、
コンポーザーの方々もご自身がよいと思った生き方や価値観を伝えてくださるので、
サドベリースクールのように「子どもに全て任せる」だけでなく、
ある程度プログラムを大人が考えてから場を提供する方がいいケースもあるんだと学びました。

ーー将来の夢やチャレンジしたいものは何ですか。

米澤:サドベリースクールに通う子たちが
目をキラキラ輝かせて、好きなことを追求している姿に日々ふれていると、
社会をよくするエネルギーや可能性を強く感じるんです。
「ひたむきに追求する子どもの姿勢」を自分自身ももっていたいですし、
こうした興味や特性を、子どもも大人も発揮できる環境づくりが夢ですね。
壮大かもしれないけれど、日本をもっと良くしていきたいという気持ちが強くあります。

この夏、小豆島に自転車でバックパッカーの旅をしてきました。
野宿しながら「自ら育てたものを自ら消費する」という地産地消の暮らしに
興味が湧いていたからです。
旅をして、定住せずに狩猟民族的に釣りをする生活に強く憧れましたね。
そして改めて感じたのは「普通じゃなくていい」ということ。
もちろん、いい大学、いい会社に入って着実にキャリアアップしていくという人生もいいと思います。
ただ、自分が目指す生き方とは違う。
周囲の目を気にせずに、ワクワクする思いや直感に素直になって、
チャレンジしていける人生がいいなぁと思っています。
自分自身の声を聴いて生きていきたいですね。

☆☆☆☆☆

本当にやりたいことなら、頭で考えるのでなく、直感で動く。
この言葉にはすごく頷けた。
好奇心と直感の鋭さは、子どもの頃の自然体験やサドベリースクールでのプロジェクト、
そして「探求型の学び」である釣りの「狩猟」の経験を通じて
磨かれていったのではないだろうか。

一方で、非常に思慮深い人という印象を抱いた。
インタビューの終盤で
「幸せとは何か、社会をよくするには…といった問題を毎晩考えている」
と発していたのが記憶にこびりついている。
彼は世の中の疑問や矛盾を見逃さずに、
社会の課題とその解決につながるものへと、高くアンテナを張り巡らしている米澤さん。
サドベリースクールという自分で自由に決める環境で道を切り拓いてきたからこそ、
自分と、自分を取り巻く社会、そして社会の常識の枠の存在と
これでもかというくらい向き合ってこられたのだと感じた。

ワクワクする気持ちや自分の声に耳を澄ませて、
直感と熟考という強力な武器をもとに
社会を変革していく若きイノベーターに出逢えたことは
インタビューをしていてよかったと心底思える瞬間だった。
posted by メイリー at 23:48| インタビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

社会の課題解決に「教育」の力で立ち向かう若きイノベーター file.58(前編)

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米澤悠亮さん。
通信制高校にてキャリア教育支援を行う特定非営利活動法人D×Pにて広報インターンを行う。
教科の授業が存在せず、子どもたちは自分の好きな学習を行うという
西宮サドベリースクールの広報担当スタッフも務めている。
彼自身が小学5年生の頃から西宮サドベリースクールに通っており、
定時制高校に通っていた経験もあると言う。
18歳と思えない落ち着きと行動力、そして、問題意識の深さの理由に迫りたいと思い大阪へ伺った。

☆☆☆☆☆

ーー子どもの頃はどんな子だったのですか。

米澤悠亮さん(以下敬称略):保育園のときはおとなしい子で、女の子と遊ぶ方が多かったですね。
あとは、昆虫と釣りが大好きで、家の近所にあった広い空き地で
友人と秘密基地づくりに夢中になっていました。
空き家の倉庫にもぐりこんで、スキーのステッキやフライパンなど
ガラクタを拾ってきては土の中に埋めるんです。
自分が面白いと感じたらすぐに行動するところは、
この原体験が影響しているなぁと感じます。
小学生になると放課後、一気に自由になるので非常に幸せを感じました。
親に何も言わずに、普段行かない場所に探検していたら、
一家総出で捜索されたこともあります(笑)

ーーかなり自由を謳歌していますね(笑)
親御さんものびのびと育てていらしたのでしょうか。

米澤:門限など一定ルールを守れば、あとは自由にさせてくれましたね。
自分のことは自分で決められる環境でした。
小学校での生活は、グループ内で持ち回りでイジメが起きる状況に嫌だなぁと我慢しつつも、
普段は楽しく過ごせていました。
ですが、5年生になって、直接的なきっかけは覚えていないものの、不登校になりました。
母親に「学校に行くのがしんどい」と伝えると、「行かなくてもいいよ」と言ってくれて。
最初は好きな教科である理科や自然学校にだけ出席していましたが
7,8月にはバッタリ行かなくなり、家で過ごすようになりました。
そこで母が探してくれたのが西宮サドベリースクールでした。
「面白そうだから行ってみない?」って。
体験授業に行ったら、もうカルチャーショックの連続でしたね。

ーーカルチャーショックの連続ですか。

米澤:始業時間が午前10時というのに、まずびっくりしました。
建物は民家だし、外に置いてある看板は子どもたちが描いた独創的な絵。
子どもながらに宗教団体なんじゃないかと思いました(笑)
入り口付近にスロットマシーンが置いてあって、何だろうと思ったら
パチンコ屋の店員を目指していた子どものために購入したものだったとか。
代表の話を聞いていると、ゲームの持ちこみがOKと知り、
「めっちゃ楽しそうやん!」と思いました。
3日間の体験授業を受け、直感的に「ここがいいなぁ」と思って入学を決意しました。
時間割もカリキュラムもテストもない学校なのですが、
理屈ではなくフィーリングで合うと感じたんです。

ーー特に夢中になった活動や印象に残っている出来事ってありますか。

米澤:一つは滋賀県彦根に釣りにいくプロジェクトを企画し実行したことです。
スクールでは生徒の自治が基本なので、
ミーティングで承認を得られれば、好きなプロジェクトを立ち上げることができます。
釣りのプロジェクトでは、出費を甘く考えていて、
少し足が出てしまい、会計管理の厳しさを思い知らされましたね。
もう一つ印象的だったのは、コンビニプロジェクト。
業務スーパーでラムネやお菓子を安く仕入れ、スクールの棚に置き、
利益をつけて商品を売るという内容です。
場所代という固定費を支払うことになっていたので、商品の仕入れや値付けも
自分で考えて決めなくてはいけません。
例えば夏場はアイスやジュースで稼げるな、なんて。
あとは、一人で明石や須磨によく釣りに行っていました。
今思うと、釣りで「狩猟する感覚」が鍛えられていたのかもしれません。
釣った後、自分でさばいて食べるので、食料を獲得する喜びを得られるんです。
これって実は探究型の学びなんです。
ある気候条件で、ある時間帯にしか取れない魚がいるので、
魚が取れやすい「潮が動き出すタイミング」を計算して釣りに臨むという。

ーー小学高学年ですでに自分で魚を釣ってさばけることもすごいですが、
釣りが探求型の学びって、お話を聞いてなるほどと思いました。
その後はどんなふうに中学、高校と過ごされたのでしょう。

米澤:しばらくは自由を謳歌していたのですが、自由すぎるゆえに
自分や人生の目的について考え始めるようになりました。
社会的マイノリティーに属していると、こうした問題にぶつかりやすいのかもしれませんね。
平日外出していると「なんで学校に通ってないの?」と聞かれることが
当時はコンプレックスでした。
ですが、自分と向き合い続けるうちに、大事にしたいものが見えてきました。
大人になったら1週間に約40時間も働くのだから、
心から好きなことを仕事にしようと決心したんです。
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高校受験の時期は、自分にとって大きなターニングポイントの一つでした。
色々な生き方の人と関係性をつくりたい。
サドベリー以外の教育を知りたい。
そんな思いから面接と筆記試験で受けられる定時制高校を目指すことにしました。
この時期は入試という高い壁が目の前にそびえ立っていた。
四六時中「どうすれば受かるのか」を考えていましたね。
普段は通っていなかったのですが、地元の中学の担任の先生が
面接の練習や作文の添削に熱心につきあってくれて、
そのおかげもあり、入試当日は全力投球できました。
作文用紙の裏にまでギッシリ字を書いたのを今でも覚えています。
受かったときは飛び上がるほど嬉しかったですね。
受験を乗り越えた経験が、自己肯定感や自信につながり、
今の自分を形作っているのだと思っています。

☆後編につづく☆
posted by メイリー at 22:15| インタビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年12月02日

未完成の美を秘めたフォトグラファー file.57(後編)

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前編はこちら

――暗黒時代ですか。

明音:実はイギリスで、偶然にも大阪のラウンジでホステスをしている日本人女性に出逢い、帰国後そのラウンジでピアニストとして働かせていただいたんです。
でも、やはりピアノに気持ちが入らず、「これからどうしたらいいんだろう?」という自責の念に駆られ、自分の体を自分で傷つけてしまうという行為に走ってしまったこともありました。

ごはんも食べられず、お風呂に入る気力も無く、家でただmixiを眺めるだけの生活。
そんなとき、NPO法人「超」∞大学学長を務める
松永真樹さんのページに辿り着いたんです。
最初プロフィールの写真を見たときの印象は、「何やねん、この人」でしたが(笑)、
彼が紹介していたセミナーの告知文には、
「自分に自信を持てない人、やりたいことが見つからずにいる人、集合!!!」と書かれていました。
この文章を見たときに、なぜか「行かなきゃ」と思い、参加することに決めたんです。

行ってみると、「こんなあたたかい人ばかりの空間なんてあるの?」と思ってしまうほど
私を受け入れてくれる人ばかりが迎えてくれました。
どんな感情を吐き出しても受け止めてくれる彼らと出逢い、「ここが私の居場所なんだ」と実感しました。
その日のうちにスタッフになりたいと申し出て、「超」∞大学関西支部の立ち上げに携わることになりました。そして、関西代表として活躍する日々が始まりました。

――暗黒時代から大転換だったのですね。
「超」∞大学関西支部代表をされていたとのことですが、そこでどんな日々を送られていたのでしょう。

明音:学生向けのセミナーや仲間と本を出版するなど様々なイベントをおこない、また3.11後は募金活動もおこなっていました。
イベントやセミナーを頻繁に企画していたので、その中で撮影する機会も多くありました。
ちょうどその頃に、私の人生の師匠である米田真介さんがNikonの一眼レフカメラをおすすめしてくれたので、興味本位で一眼レフを手にし、撮影を始めました。
あるイベントの撮影をしていたときに、アナウンサー志望の女子大生に就活用の写真を撮ってほしいと頼まれて撮り始めたことがきっかけで、ポートレート撮影に夢中になっていきました。
これが、私の作品集「Photo Collection」の始まりです。
100人のコレクションという形になるまで続けてこられたのは、人とのつながりに支えられたおかげだと思っています。
また、「超」∞大学は「両親への感謝の気持ち」も大事にしていて、それが父親との関係にも影響を与えました。

――お父様との関係にどんな影響があったのですか。

明音:実は父親とはずっと折り合いが良くなかったんです。
小さい頃から母親へのひどい態度を見てきていたし、だらしない女性関係のことも薄々気づいていました。
私が大学生になった頃から、日に日にケンカが増え、家庭環境は悪くなる一方でした。

そのまま父とは離れて暮らすようになり、音信不通の日々が何年か続きました。
ですが、両親を大事にする「超」∞大学に居たことに加え、3.11の影響もあり、
「人間いつ死ぬかわからない」と思い、昨年25歳の誕生日の直後、父に会いに仙台に行ったんです。
父が仙台の町を案内してくれて、2人きりでゆっくり過ごしました。こんなに父と向き合うのは初めてだったかもしれません。
なんとも言えないこしょばい気持ちになった一日でした。
お互いに謝り、許し合えたことで、心の引っかかりがとれたような気がします。私の人生の大きな一歩でした。

「明音」という名前は、父から最初にもらった大事な贈り物。
私は予定日より2ヶ月も早く、仮死状態の超未熟児で生まれてきました。
「目も耳も不自由になるかもしれない」とお医者さんに言われた私に、父は「明るい光が見えるように、多彩な音が聴こえるように」という願いを込めて「明音」と名付けてくれました。
この名前は私の誇りであり、宝物でもあります。

――明音さんのお名前にはお父様のそんな想いが込められていたのですね…。

明音:「超」∞大学に入っていたからこそ、家族とのつながりも見直せたんだと思います。
「超」∞大学の仲間と過ごした日々は、キラキラした思い出ばかりです。
仲間たちと徹夜でイベントを準備したこと。
感謝の気持ちを伝える「さんくすすてーじ」を公演したこと。
そんな出来事に囲まれ、最高の幸せを噛み締めながらも、居心地の良い環境への甘えも生まれていて、このままではここに安住してしまうと思い、2年で卒業を決意しました。優しくてあたたかく、人のために一生懸命になれる「超」∞大学のみんな。
人生を通して付き合える、大事な仲間たちに恵まれたと思っています。

――「卒業後フォトグラファーの道を進まれて、今どんな活動をされているのでしょう。

明音:本当は、「Photo Collection」が100人に達したとき、カメラを辞めようかと本気で迷ったことがあったんです。
ですが、「明音に撮ってほしい」と人に言ってもらえるのが本当に嬉しくて、
今後もカメラを主軸にしようと決めました。

今はフォトスタジオに在籍しつつ、フリーランスの仕事も請け負っています。
主にブライダル撮影をしていますが、イベント撮影・物撮り・学校行事撮影などさまざまな撮影をおこなっています。
どんどん仕事の幅を広げていきたいと思っているので、これからも色々な撮影に挑戦していきたいですね。

写真はフォトグラファーの意図や感情すべてが映し出されるものですが、
趣味でしているタップダンスも同じように奥が深く、タップの音でダンサーの性格や心境がわかります。
タップの音って繊細で、楽器のように心を反映するんです。

――色んな表情をもつ明音さん。これから挑戦したいことや夢はありますか。

明音:しばらくはカメラとタップダンスを楽しみたいと思っています。
しかし、何十年後でもいいので、いずれは小説家になりたいと思っています。
20歳のとき純文学を読み始め、金原ひとみさんの作品に多大な影響を受けました。
それがきっかけで当時私も小説を書いていたんです。
小説は私にとって「逃げ場」でした。
小説は私の闇を吐き出す手段でもあるのです。

写真はポジティブな心境で撮れますが、小説は心に闇の部分がないと書けない。
ちなみに今は毎日が幸せなので小説は書けないと思います(笑)。
でも、私は心の闇も大事にしたい。
自分の感性を大切にして、もっと作品を生み出したいという気持ちが強くあります。

私の人生のテーマであるART IS LIFE≠ノは、「私の人生を芸術作品にする」という意味が込められています。
芸術作品には創り手の人生そのものが詰まっています。
私という作品は、日々刻々と創られていきますし、
これまで出逢ってきた人の誰一人欠けても、今の私は存在しません。

日々の小さなことに幸せを感じ取れる自分でいたいですが、幸せと満足は違うもの。
「今のままでいい」と満足せずにどんどん挑戦していきたいです。
いつまでも「未完成」でいられたら幸せですね。

☆☆☆☆☆

一本の映画を見ているようだった。

明音さんの名前の由来のお話を伺ったときには
知らぬ間に一筋の涙が頬をつたっていた。
彼女の生き様はなぜこんなにも人の心を打つのだろう?

「LIFE IS ART ではなくART IS LIFE
私という人生が、ひとつの作品」という言葉が何度もリフレインする。

過去のどんな出来事にもポジティブな意味付けをされているのが印象的だった。
中高時代に人間関係で悩んだこと。
「女の子を好きになる」という「性」に向き合ったこと。
大学時代、自分の生きる意味が見えずどん底に陥ったこと。

色んな経験と、葛藤、感情に向き合ってきた明音さんだからこそ、
光と闇が同居した彼女オリジナルの生き方が生まれ、
出逢った人たちの心に衝撃と呼んでいいほどの痕跡を残していく。

同時に、壁にぶつかるたびに絶え間ない対話を続けてきたからこそ、
人の痛みを分かち合うことができ、人との繋がりをこよなく愛し、
世の中のあらゆるものを鋭敏な感性で受け止められるのだろう。
そう思わずにいられなかった。

今後も日々形作られていく「彼女」という芸術に目が離せない。
posted by メイリー at 23:21| インタビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする