
農林水産省で働きながら2012年に「芸術家の村(Social Artist Villiage)を立ち上げ、
広い意味でのDesign&Artのイベント運営を行っている柚木理雄さん。
2013年秋からソーシャルビジネスラボ(SBL)をスタートさせた。
「生き甲斐を感じる社会へ」というビジョンを掲げて突き進む彼の原動力は何なのだろうか。
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ーー芸術家の村を立ち上げようと思ったきっかけを教えていただけますか。
柚木(敬称略):公務員として働いていると国全体の利益に関わるテーマが多いため、
様々な立場の人・団体の調整業務が必要になってきます。
全員が満足できるけれど、完全には満足できないという結論に至ることも多く、
「個のニーズ」に直接働きかけることができないか?と思い始めました。
NGOの場合にはまさに現場にある個のニーズに対して直接働きかけることができます。
こんなモノがあったらいいな、こんなことができたらいいな、ということがあればすぐに行動することができる。
「現場に近いところ」から人を幸せにしていきたいという思いで、NGO立ち上げを決めました。
公務員のマクロの視点とNGOのミクロの視点、両方を大事にしたいと思ったんです。
ーーNGOの中でも「芸術」の分野に決めた理由は何でしたか。
柚木:芸術家の村の「芸術家」はいわゆる絵を書いているとか音楽をやっている方だけではなく、
「こんなモノがあったらいいな、こんなことできたらいいな」を新しく創る人という意味で使っています。
クリエイター、イノベーターというニュアンスに近いですね。
一緒に活動をしている人には、美大生やデザイン会社の方などもいますが、全然違う学部の学生さんや弁護士、会計士、税理士などの士業の方、大学の教員などいろいろな方がいます。
ちなみに「芸術家の村」の名前は大学院2年生のときの経験からきています。
海外のゲストハウスに1年ほど住み込みをしているときに、
たまたまアートをやっている人が周りにたくさんいて、
それがとても居心地良く、そのゲストハウスのオーナーが芸術家の村を作りたいといっていていいですねー、とか言っていた。
その時は夢でしかなかったけど、芸術家の村のような「こんな村あったら楽しいな」も本当に創りたいと思って決めました。
「芸術家の村」のロゴは、人が集まることで一つのモノを形作っているロゴにしたいと思っていました。
芸術家の村のロゴは、人によって「太陽」に見えたり「花」に見えたりします。
でもよく見ると、「人々が手をつないで円を描いている」のを上から見た絵になっています。
人々のつながりが広がっていく面と収束して団結していく面の両方を表しているようにも見えます。
ーーそんな意味が込められているのですね。
子供時代のことを教えていただけますか。
柚木:小学1〜3年生の間はブラジルで暮らしていました。
少人数で異学年がまじった学校だったので、個々の自主性を重んじてくれました。
ですが日本に戻ってからはのびのびできなくて、戸惑いましたね。
「出る杭は打たれる」という空気を目の当たりにし、中学時代もつまらないなぁと感じることが多々ありました。
「○年生は跳び箱を△段までしか飛ばない」という風に、
取り組みの範囲が学年で決められてしまうことが窮屈で。
印象的だったのは、中学時代の描画会での出来事。
アメリカから帰国した生徒がいきなり絵の具を使って描き始めたら、
先生が「鉛筆で下書きせずに描いちゃダメ」と注意したんです。
子どもの考えや発想が尊重されていないなぁと感じました。
なので大学に入って一人暮らしを始めたときは言いようのない開放感でしたね。
時間の使い方も受ける授業も自分で自由に決められるのですから。
ーー農学部を選ばれた理由は何でしたか。
柚木:理系科目は苦手だったのですが、自然界の不思議を探究していくのが面白くて、
絶対理系にしようと決めていました。
法律や経済といった「先人が決めたルール」を学ぶことには、当時興味をもてなかったんです。
理系の中でも宇宙と生物が2大興味テーマでした。
生物に絞り、動物実験には抵抗があったので作物の研究をと思い、農学部に決めたという経緯があります。
ーー小さい頃から科学への興味をもっておられたんですか。
柚木:そうですね。小学5年生のとき、先生が天体観測を本格的にさせる先生で、星への興味が高まりました。
中学校の入学祝いでは天体望遠鏡と顕微鏡を買ってもらいました。
望遠鏡はマクロへと広がっていくのに対し、顕微鏡はミクロへと収束していくイメージですね。
これが影響して宇宙と生物が2大興味テーマになったのだと思います。
ーーなんだか、国とNGOの両方に関わっていらっしゃるところと共通点がありそうですね。
大学時代にはフランスへの交換留学もされていたとのことですが、
海外での経験について聞かせていただけますか。
柚木:大学3年生からバックパッカーを始めて、東南アジアやヨーロッパをめぐりました。
一歩を踏み出す前には、本当に大丈夫だろうかと悩みましたが、まずはやってみないと…と思って。
中国へ日本から船旅をしたときに、世界から色んな人たちと話をしたのが非常に楽しかったですね。
現地では街の至る所にベッガー(物乞い)がいて、
日本では見ることのできない状況に身をおけたことも自分に大きな影響を与えました。
4年生の頃、フランスに交換留学をするかアフリカで研究するか迷っていたことがあります。
所属していた熱帯生態学研究所では、農学だけでなく文化人類学にも近い分野も研究対象になっていました。
バックパッカーの経験を通じて、「人が生み出したもの」つまり文化を研究したいという思いがふつふつと湧き上がり、興味が理系から文系に移っていった頃です。
結局はフランスに留学する道を選びましたが、
未知なる存在の最たる例としてアフリカへの興味は今もずっとあります。
(後編につづく)