2014年08月15日

日本の産業支援の流れを変革する異端児 file.47(前編)

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小出宗昭さん。
静岡銀行でM&A担当などを経て独立、株式会社イドムを創業。
富士市産業支援センターf-Biz(エフビズ)の立ち上げと運営を担い、
センター長として活躍している。
これまで産業構造も都市の性格も違う静岡県内の3都市で4つの産業支援施設の開設と運営に携わり
1,000件以上の新規ビジネス立ち上げを支援してきた。
国による企業支援拠点整備のロールモデルとして注目を浴びているエフビズモデルは、
全国47都道府県に展開され、地域の活性化にもつながっている。

朝日新聞beの「フロントランナー」で小出さんの記事を読み、
情熱的な生き様に胸を打たれた。
ご縁によりインタビューの機会を得て、お話を伺っていくと、
今の行動的でパッションに満ちた姿になるまでにいくつかの「転換点」があったことを知る。
果たしてどんな変化が彼に起こったのだろうか?

☆☆☆☆☆

ーー小中高はどんな子でしたか。

小出さま(以下敬称略):特別机に向かって勉強していたわけでも
とびぬけて得意なこともない普通の子でした。
今、産業支援の仕事ではオリジナリティーやメンタリティーを評価していただいていますが、
子どもの頃にそんな片鱗はなかったんじゃないかと思うんです。
メディアが作るイメージと乖離がある気がします。

ーー親御さんとの関係はどんなものだったのでしょう。

小出:長男ということもあり、溺愛されて育ちました。
母は今83歳になりますが今でも私のことを子どもだと思っているでしょうね。
富士市に住んだまま沼津の中学に越境入学したのですが、
母はお弁当のおかずに非常にこだわっていて、
周囲から「何時間かけて作っているの?」と驚かれるくらいでした。
毎朝早くに手間ひまかけて作ってくれていたと思うと、いかに愛されていたんだろうと。
中学2年生の頃、骨髄炎で入院したときも、両親ともに毎日のように見舞いに来てくれたのを覚えています。

ーーご両親の愛情を一心に受けて育ったのですね。
越境入学までしようと思ったのはなぜだったのですか。

小出:私が小中時代を迎えた昭和40年代は、有名大学至上主義で教育熱が激しい時代でした。
両親に中学受験を薦められ、小学校の時は家庭教師をつけられたし、東京の塾にもスクーリングに行った。
母は学生の頃成績優秀だったのに諸事情で大学進学ができなかったこともあり、
「この子には夢を果たしてほしい」という思いがあったのでしょう。
中学時代はまじめに勉強していました。
でも、当時は勉強が楽しいと思ったことはあまりなく、
これといって学びたいものもなかったですね。

ーー沼津の名門高校に入ってからこれまでの教育方針に反抗したとお聞きしましたが。

小出:表立って反抗することはなかったけれど、高2の頃からはウルトラ劣等生でしたね。
中学まで持っていたいい高校に入るという目標がなくなり、勉強しなくなってしまった。
成績はみるみる落ちて、約160名の文系クラスで140〜150位に。
勉強しなくなったもう一つの要因は、学校という組織からの押しつけが嫌いという思いがあります。
これは銀行員になってからの姿勢にも通じるのですが。
「より偏差値の高い大学を目指すべき」という一律の価値観への反発心が芽生え、
勉強しないことが静かな抵抗だったのでしょうね。
けれど、学校や世の中の枠からはみ出す勇気はなくて、
突飛さも爆発力もない、いわゆる不完全燃焼感がありました。
勉強を押しつけられることへの反発心と、
「親の期待に応えられなくてすまない」という気持ちと板挟みだったような気がします。

ーー一律の価値観を押し付けられたくないという気持ちがあったのですね。
当時、夢中になったことなどはないのでしょうか。

小出:読書は高校時代からずっと好きでしたね。
歴史物が好きで司馬遼太郎の「竜馬がゆく」は何度読んだか分からないほど。
文学もSF小説も読みました。
あとはクラシックやロックをよく聴いていました。
学校では化学部に入っていて、面白い先輩たちに会えたし、高校生活自体は楽しかったです。

ーー当時の自分に、何と言ってあげたいですか。

小出:「何のために学ぶのか、何のために生きるのか」という問いを
しっかり直視しろと言いたいですね。
生きることの意味が見つかれば、人生のエンジンのかかり方が変わりますから。

ーーそんな不完全燃焼感をもっていた小出さんが、
上の人にもはっきり自分の意見を述べる銀行員になるまで、
どんな転換点があったのでしょうか。

小出:最初の転換点は、法政大学の経営学部に入学したときです。
大学から「君たちの就職は厳しいから頑張って勉強しなさい」と言われ、
就職を目指していた当時の私は「これはやばい」と危機感を抱いた。
そこから、大学の授業を真面目に聴き、良い成績を取るようになりました。
2つめの転換点は就職活動のときです。
塾講師や他のアルバイトをするうちに
「実はコミュニケーションが得意」だと気付き、接客業に関わりたいと思うようになりました。
アメリカをバスで1周する一人旅に出たことも自信につながったのだと思います。
旅好きで、人と関わる仕事ということで旅行業界を中心に受け、
JTB、近畿日本ツーリスト、帝国ホテルの内定をいただきました。
JTBは1万人の応募者から受かるのは100人程度と言われている世界。
面接では自分の考え方や伝え方が「ウケている」という感触がしっかりあった。
大人社会との最初の本格的な接点で「ウケている」という実感と評価を得たことは、
大きな自信につながりました。

ーーコミュニケーションというご自身の強みが開花していったのですね。
旅行やホテルの内定を得られた後、静岡銀行を選ばれたのは?

小出:実は金融業界を接客業と捉えて静銀を受けたんですよ。
親が地元の堅実な会社に行ってほしいと願っていたことも、後押しになりました。
役員面接で「接客業」の観点を話すと「君って珍しいね」と面白がられたのを覚えています。

☆後編につづく☆

posted by メイリー at 23:37| インタビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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