
松原あけ美さん。
心理セラピストとしての経験を活かし、「自分と対話」するための絵本を製作。
絵本セラピストとして「自分の心と向き合う体験」を届けている。
子育て相談や個人セラピーを、小中学校では絵本セラピー授業を、
大人向けには絵本を使った講演などを行い、
自分の本当の心と共に生きることの大切さを伝えている。
現在は一般社団法人こころ館を立ち上げ、
2011年に出版した「母なる木」という作品を
中高生から大人までに使用し、自分と対話し生き方について考える授業・研修を行っている。
企業向けにも「絵本を用いたワーク」を取り入れた新人・若手社員研修を実施。
メンタルヘルスの問題解決にも力を尽くしている。
子どもだけでなく、大人の心を解き放つ力が
松原さんが製作する「自分と対話するための絵本」に詰まっているのではないだろうか?
私の中にあった「絵本の可能性を探りたい」という気持ちが刺激された。
中学校のとき、友人が創ってくれた絵本に
心が癒やされパワーをもらった経験があったためだ。
絵本セラピストになられるまでの道のりをお聴きしたいと思い、
京都の清水寺の近くにあるオフィスを訪れた。
☆☆☆☆☆
ーーセラピーに絵本を取り入れるようになったきっかけは何だったのでしょうか。
松原あけ美さん(以下敬称略):2003年から心理セラピストの活動を始め、
子どもたちの相談に乗っていたのですが、
子どもたちはなかなか本当の気持ちを語ってくれないんですね。
ちょうど物語を書き始めていた時期で、
絵本を読むと、子どもたちが思いを表現するようになって、絵本の可能性を感じ始めたんです。
ポピーでこうした内容を連載していたら
編集者の人に「絵本セラピストってかっこよくないですか?」と言われたのを機に、
「絵本セラピスト」と名乗るようになりました。

ーーそこから自作の絵本を授業に取り入れるようになったのでしょうか。
松原:中学校に入らせてもらい、掃除や給食、授業中に子どもたちと一緒に過ごす中で
「言いたいけど言えない」という課題をもっていることがわかりました。
それを京都教育大学附属京都小中学校の先生に話すと、「面白いね」と言われ、
自作の絵本を道徳教材として1年間授業で使用することになったんです。
劇もあって、かなりのスペシャル授業やったと思います。
それがきっかけで、カウンセリングルームをアレンジし、
2007年には、日本初めての心の部屋「絵本セラピールーム」ができました。
悩みがある子もない子も、保護者も先生も立ち寄れる場となっています。
この部屋は家庭と先生の架け橋でもあり、子どもが問題を抱えていたら
一緒にその解決策を考えていくことを大事にしています。
気になる子がいたら教室にも見に行ったり、声を掛けたりしていますね。
絵本だけでなく、ゲームや塗り絵も置いてあり、好きなもので遊べるようになっています。
アロマを焚いてBGMを流しているんです。
リラックスできて開かれた場所になるといいなと思っています。

ーーカウンセリングルームは増えてきていますが、
アロマやBGMつきのお部屋はなかなか珍しいですね。
松原さんは小中時代、どんな子だったのですか。
松原:走るのが速くてリレーではいつもアンカー。
男の子と野球をしたり基地を作ったりザリガニ釣りをしたりとおてんばな子でしたね。
中高は私立一貫校に通っていたのですが、
授業はまったく好きになれず、教科書を机に出さないとか、
教科書で隠してお弁当を食べるとか、反抗的な生徒だったと思います。
でも、何事にも挑戦するという姿勢ができたのは、
同じ学校以外の生徒とも目一杯遊んだ経験があったからだと思っています。
唯一好きだった授業は女性史。
クレオパトラや西太后、マリー・アントワネットなど、
世界の女性の中で、好きな人物について調べてレポートを書き、
クラスメートたちと共有するという内容でした。
興味のある人を自由に調べられるのが好きだったんです。
あとは先生が好きでした。
所属していた創作ダンス部の顧問だったこともあり、
私の良い所も悪い所も認めて、受け入れてくれる人だったんです。
中には、「手に負えない子」だと思っていた先生がいたと思います。
ーー反抗心もあったのでしょうか。
松原:ありましたね。
ある先生から「死んだ魚のような目をして授業受けてるね」と言われたことがあって。
今でも強く覚えています。
「これをやりたい、これが好き」というものを見つけられないまま、
短大では経営学部に入って、これまた授業に興味を持てない日々が続きました。
ーー大学時代に印象に残った出来事や経験ってありますか。
松原:父の会社が上手くいかなくなったこともあり、20歳のとき、短大を中退して、
長野県のペンションで住み込みのアルバイトを始めました。
知り合いすらいない新しい環境で自分の力を試してみたかったんです。
帰りの切符を買ってしまえば、過酷だとすぐに帰りそうなので、
片道切符だけ買って長野へ立ちました。
そしたらオンシーズンのある日突然、経営者もシェフもとんずらして
私たち学生アルバイト4名だけが残されたんです。
でも満室で、お客さんを放っておくわけにはいかない。
見よう見まねでフランス料理を作り、掃除から喫茶のウェイターまで
一人何役もこなしました。
ーーとんずらとは…!
そんな過酷な状況でもお客さんたちのために頑張れるってすごいことだと思うのですが。
松原:お客さんたちの予約は入っているし、責任感からみんなで一致団結したんでしょうね。
「誰かに頼らずに自分たちで何とかしなきゃいけない」という境遇にあったことは、
私の人生のターニングポイントだったと思います。
ペンションの仕事が終わった後は、「手に職をつけなきゃ」という思いに駆られ、
パソコンの入力をする会社に入りました。
その後大阪の広告代理店の事務職になったですが、
働く時間や場所を縛られるのがすごく嫌なんだと気付き、
3ヶ月ごとに新しい会社に行ける派遣の働き方を選ぶようになりました。
色んな社風を見られたのは楽しかったですが、事務は向いてなかったんですよね。
そんな生活を3年続けていたら、家の商売が倒産し、当時の彼氏とも別れるという
「全てをなくす経験」をしました。
こんな私に何ができるだろう?と考えた挙句、
高校時代からシャガールなどの絵を観るのが好きだったことを思い出し、
絵に関わる仕事に就きたくて、ヒロ・ヤマガタという画家の日本事務所に入り、
百貨店での絵の販売の仕事を始めました。
1枚100〜300万なんてザラな世界ですから最初は全然売れなくて…。
「もう辞めよう」と開き直った日に、飾らずに正直な接客をしたら
ようやく1枚売れて、そこからトップセールスになっていったんです。
そこで「あ、私って販売は向いてるんだ」と気づいて。

ーーそんな大きな変化があったのですね。要因は何だと思いますか。
松原:「売らなきゃ」と思わなくなったのがよかったのでしょうね。
売れる経験が自信になって、「自分はダメだ」という思い込みがなくなったのも
好影響だったと思います。
どんな人なら買ってくれそうかを見抜く洞察力も磨かれていきましたね。
その後、結婚をして、子育ての最中に転機がやってくるんです。
ーーどんな転機でしょう。
松原:私は長女ということもあり、あまり泣き言を言わないタイプだったのですが、
大変なことが重なり、うつやパニック障害、過呼吸の症状に見舞われました。
少し外に出るだけで目が回るし、脂汗をかく。
そのときは息子が3歳くらいでしたが、子育ての記憶もほぼないくらい辛い日々でした。
ですが、心の病は自分の心と向き合うきっかけを与えてくれた。
「心ってどこにあるんだろう?」、「とことん心を覗いてみよう」って。
自分の思っていることをノートにひたすら書き出すようにしたら、
外に見せている自分と、内側の自分とのギャップが激しいことに気づきました。
当時はお金の余裕がなく、他人への妬みなど、心の中が泥々になっていた。
2年間、心を見つめてノートに書き出すことで
「こんな不幸な考え方じゃあかん!」という気づき、
心の病気をつくったのは自分なんだと客観視できるようになってきました。
その頃から、いいカッコせずに等身大の自分でいられるようになってきて、
自分の良い部分も醜い部分も共にあるのだと思うようになりました。
事あるごとに「今の私でいいの?」と一人で見つめ直す時間をとっていますし、
「立ち止まって感じる時間」をとると、リセットされて、新しい考えが生まれてくるんですよね。
★後編につづく★