
☆前編はこちら☆
――暗黒時代ですか。
明音:実はイギリスで、偶然にも大阪のラウンジでホステスをしている日本人女性に出逢い、帰国後そのラウンジでピアニストとして働かせていただいたんです。
でも、やはりピアノに気持ちが入らず、「これからどうしたらいいんだろう?」という自責の念に駆られ、自分の体を自分で傷つけてしまうという行為に走ってしまったこともありました。
ごはんも食べられず、お風呂に入る気力も無く、家でただmixiを眺めるだけの生活。
そんなとき、NPO法人「超」∞大学学長を務める
松永真樹さんのページに辿り着いたんです。
最初プロフィールの写真を見たときの印象は、「何やねん、この人」でしたが(笑)、
彼が紹介していたセミナーの告知文には、
「自分に自信を持てない人、やりたいことが見つからずにいる人、集合!!!」と書かれていました。
この文章を見たときに、なぜか「行かなきゃ」と思い、参加することに決めたんです。
行ってみると、「こんなあたたかい人ばかりの空間なんてあるの?」と思ってしまうほど
私を受け入れてくれる人ばかりが迎えてくれました。
どんな感情を吐き出しても受け止めてくれる彼らと出逢い、「ここが私の居場所なんだ」と実感しました。
その日のうちにスタッフになりたいと申し出て、「超」∞大学関西支部の立ち上げに携わることになりました。そして、関西代表として活躍する日々が始まりました。
――暗黒時代から大転換だったのですね。
「超」∞大学関西支部代表をされていたとのことですが、そこでどんな日々を送られていたのでしょう。
明音:学生向けのセミナーや仲間と本を出版するなど様々なイベントをおこない、また3.11後は募金活動もおこなっていました。
イベントやセミナーを頻繁に企画していたので、その中で撮影する機会も多くありました。
ちょうどその頃に、私の人生の師匠である米田真介さんがNikonの一眼レフカメラをおすすめしてくれたので、興味本位で一眼レフを手にし、撮影を始めました。
あるイベントの撮影をしていたときに、アナウンサー志望の女子大生に就活用の写真を撮ってほしいと頼まれて撮り始めたことがきっかけで、ポートレート撮影に夢中になっていきました。
これが、私の作品集「Photo Collection」の始まりです。
100人のコレクションという形になるまで続けてこられたのは、人とのつながりに支えられたおかげだと思っています。
また、「超」∞大学は「両親への感謝の気持ち」も大事にしていて、それが父親との関係にも影響を与えました。
――お父様との関係にどんな影響があったのですか。
明音:実は父親とはずっと折り合いが良くなかったんです。
小さい頃から母親へのひどい態度を見てきていたし、だらしない女性関係のことも薄々気づいていました。
私が大学生になった頃から、日に日にケンカが増え、家庭環境は悪くなる一方でした。
そのまま父とは離れて暮らすようになり、音信不通の日々が何年か続きました。
ですが、両親を大事にする「超」∞大学に居たことに加え、3.11の影響もあり、
「人間いつ死ぬかわからない」と思い、昨年25歳の誕生日の直後、父に会いに仙台に行ったんです。
父が仙台の町を案内してくれて、2人きりでゆっくり過ごしました。こんなに父と向き合うのは初めてだったかもしれません。
なんとも言えないこしょばい気持ちになった一日でした。
お互いに謝り、許し合えたことで、心の引っかかりがとれたような気がします。私の人生の大きな一歩でした。
「明音」という名前は、父から最初にもらった大事な贈り物。
私は予定日より2ヶ月も早く、仮死状態の超未熟児で生まれてきました。
「目も耳も不自由になるかもしれない」とお医者さんに言われた私に、父は「明るい光が見えるように、多彩な音が聴こえるように」という願いを込めて「明音」と名付けてくれました。
この名前は私の誇りであり、宝物でもあります。
――明音さんのお名前にはお父様のそんな想いが込められていたのですね…。
明音:「超」∞大学に入っていたからこそ、家族とのつながりも見直せたんだと思います。
「超」∞大学の仲間と過ごした日々は、キラキラした思い出ばかりです。
仲間たちと徹夜でイベントを準備したこと。
感謝の気持ちを伝える「さんくすすてーじ」を公演したこと。
そんな出来事に囲まれ、最高の幸せを噛み締めながらも、居心地の良い環境への甘えも生まれていて、このままではここに安住してしまうと思い、2年で卒業を決意しました。優しくてあたたかく、人のために一生懸命になれる「超」∞大学のみんな。
人生を通して付き合える、大事な仲間たちに恵まれたと思っています。
――「卒業後フォトグラファーの道を進まれて、今どんな活動をされているのでしょう。
明音:本当は、「Photo Collection」が100人に達したとき、カメラを辞めようかと本気で迷ったことがあったんです。
ですが、「明音に撮ってほしい」と人に言ってもらえるのが本当に嬉しくて、
今後もカメラを主軸にしようと決めました。
今はフォトスタジオに在籍しつつ、フリーランスの仕事も請け負っています。
主にブライダル撮影をしていますが、イベント撮影・物撮り・学校行事撮影などさまざまな撮影をおこなっています。
どんどん仕事の幅を広げていきたいと思っているので、これからも色々な撮影に挑戦していきたいですね。
写真はフォトグラファーの意図や感情すべてが映し出されるものですが、
趣味でしているタップダンスも同じように奥が深く、タップの音でダンサーの性格や心境がわかります。
タップの音って繊細で、楽器のように心を反映するんです。
――色んな表情をもつ明音さん。これから挑戦したいことや夢はありますか。
明音:しばらくはカメラとタップダンスを楽しみたいと思っています。
しかし、何十年後でもいいので、いずれは小説家になりたいと思っています。
20歳のとき純文学を読み始め、金原ひとみさんの作品に多大な影響を受けました。
それがきっかけで当時私も小説を書いていたんです。
小説は私にとって「逃げ場」でした。
小説は私の闇を吐き出す手段でもあるのです。
写真はポジティブな心境で撮れますが、小説は心に闇の部分がないと書けない。
ちなみに今は毎日が幸せなので小説は書けないと思います(笑)。
でも、私は心の闇も大事にしたい。
自分の感性を大切にして、もっと作品を生み出したいという気持ちが強くあります。
私の人生のテーマであるART IS LIFE≠ノは、「私の人生を芸術作品にする」という意味が込められています。
芸術作品には創り手の人生そのものが詰まっています。
私という作品は、日々刻々と創られていきますし、
これまで出逢ってきた人の誰一人欠けても、今の私は存在しません。
日々の小さなことに幸せを感じ取れる自分でいたいですが、幸せと満足は違うもの。
「今のままでいい」と満足せずにどんどん挑戦していきたいです。
いつまでも「未完成」でいられたら幸せですね。
☆☆☆☆☆
一本の映画を見ているようだった。
明音さんの名前の由来のお話を伺ったときには
知らぬ間に一筋の涙が頬をつたっていた。
彼女の生き様はなぜこんなにも人の心を打つのだろう?
「LIFE IS ART ではなくART IS LIFE
私という人生が、ひとつの作品」という言葉が何度もリフレインする。
過去のどんな出来事にもポジティブな意味付けをされているのが印象的だった。
中高時代に人間関係で悩んだこと。
「女の子を好きになる」という「性」に向き合ったこと。
大学時代、自分の生きる意味が見えずどん底に陥ったこと。
色んな経験と、葛藤、感情に向き合ってきた明音さんだからこそ、
光と闇が同居した彼女オリジナルの生き方が生まれ、
出逢った人たちの心に衝撃と呼んでいいほどの痕跡を残していく。
同時に、壁にぶつかるたびに絶え間ない対話を続けてきたからこそ、
人の痛みを分かち合うことができ、人との繋がりをこよなく愛し、
世の中のあらゆるものを鋭敏な感性で受け止められるのだろう。
そう思わずにいられなかった。
今後も日々形作られていく「彼女」という芸術に目が離せない。