2015年06月16日

デジタルマーケティングの最前線を切り拓く経営者 file.68

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小寺玲央さん。
料理界のハーバードと名高い「カリナリー・インスティテュート・オブ・アメリカ」で
西洋料理を学んだあと、京都の料亭で板前として腕を磨き、
釣具メーカーの海外営業職、専門商社の取締役勤務を経験する。
2015年春から、企業のデジタルマーケティングを専門とする
Pierry Software日本支店を京都の地に立ち上げた。

料理の世界から起業家へ。
異色のキャリアを持つ彼の生き方を知りたくて、京都のオフィスの戸をたたいた。
彼の挑戦に込められた思いとはいったい何なのだろうか?

☆☆☆☆☆

――板前をされていたと聞いて非常に驚いたのですが、
カリナリー・インスティテュート・オブ・アメリカへの進学を決めた理由は何でしたか。

小寺玲央さん(以下、小寺):将来グローバルな仕事をしたいと思い、
ボストン大学内の語学学校で1年間英語を学んでいたんです。
そのあいだに、ホスピタリティ系のキャリアに興味を持ち、
レストラン・ホテルを専門とするカリナリーインスティトュートオブアメリカに進学しました。
フランス料理をベースに、サービスや世界各国の調理法を学ぶ日々でした。

在学中に新しい文化に触れようとヨーロッパを旅して、
印象に残ったのは、フランス人もイタリア人も、自国の食材を愛し、
自国の料理に誇りを持っているということ。
そこで、自分自身が日本文化や地元京都の料理のことを
何も知らないということに気がついたんです。
新卒のときには地元京都にある料亭に板前として就職しました。

――板前としての日々はどうでしたか。

小寺:朝3時から仕込みを始めて夜中まで働く日もあり、
十代で板前の世界に入った子が途中で倒れてしまうような過酷な環境でした。
当時23歳だった自分は「もし自分がいなかったら仲間に迷惑をかけてしまう」という責任からか、逃げ出そうと思ったことはなかったですね。

ここでの学びは、仕事への姿勢の原点になっています。
「物事には段取りが必要」だと学んだのも、料亭でした。
お客様の特別な日の感動をピークに持っていくために
最高のタイミングで、料理をお出しできるようにするのが私たちの役割です。
そのためには「今の自分の仕事が、誰の、何のためにあるのか」を問い続けなくてはいけない。
また、日本料理の修行を通じて、日本文化を深く知れたのは大きな収穫でした。

――どんなに過酷な日々でも、「仲間のために」という思いが強くあったのですね。
板前を経験されて、日本文化への見方は変わりましたか。

小寺:日本料理は、他国の料理と比べて、心遣いの細かさが違います。
例えば、茶道をルーツに持つ懐石料理の世界では、
箸の先に食べ物がくっつかないように箸を湿らせておく「湿り箸」というおもてなしがあります。
これは「あなたが召し上がる直前まで箸のことも気にかけている」というメッセージなんです。
西欧だと、肉が傷んだら胡椒をかけるというふうに、「何かを加える」のが一般的ですが、
一方、日本料理だと、魚にさっと湯をかける「湯引き」によって、
臭みを取り、素材の美味しさを引き立てます。
こんにゃくも、灰汁(あく)抜きによって臭いをとります。
加えるのではなく引き算で「いいところを残す」という考え方です。
「炊き合わせ」も、それぞれの食材の持ち味を生かすために別々の鍋で煮ます。

この考え方を企業活動に取り入れると、
人間も「いいところ」を引き出してブラッシュアップすればいい。
「本質」を残して、シンプルを目指すという日本の発想は、アップルの商品など
他国にも影響を与えています。
この「本質」へのこだわりは、デジタルマーケティングの起点になっています。
私たちのサービスでも、「本当の顧客は誰なのか?」を見極めることが重要です。
最適な人に最適なメッセージを届けることでユーザーも企業も幸せになるという
本質的な問題解決を目指していきたいと思っています。

――日本料理の考え方ってこんなに奥深いのですね。
「本質を残す」という考えは、デジタルマーケティングにも通じるとは驚きです。
料理はもともと好きだったのですか。

小寺:幼少期にアメリカにいたことがあり、旅が好きで、
世界に出たいという思いがずっとありました。
なかでも料理を追究しようと決めたきっかけは、アメリカの料理があまり口に合わず
自分でつくったほうが美味しいと感じたこと。
「もっと良い味にするには?」と研究するプロセスが楽しくなってきたんです。
家族や友人も私のつくったものを美味しそうに食べてくれるのを見て、
料理を専門的に学んで、人を喜ばせたいという気持ちが強まりました。
食べるとなくなってしまう儚さがいいんですよね。
板前として経験を積んだあとは、グローバルに働くという当初の目標のため、
釣具メーカーの海外営業職へ転職し、その後、さらに商社へ転職しました。

――商社時代にビジネススクールでMBAをとろうと思った理由は何でしたか。

小寺:MBAに興味をもったのは、料亭で働いていたころ、
アメリカで起業した親戚に勧められたのがきっかけでした。
「職人であっても、自分の商品を広くお客様に届けるには、
経営手法を知っておかないとダメ」というのが印象的でした。
その後、海外の取引先のトップとも対談をする機会が多くなるなかで、
経営者の視点をもっと知りたいと思うようになったんです。
この頃には、いつか自分自身が経営者になりたいと思い始めていました。

――そこからPierry Software日本支店の立ち上げに携わろうと決めたのは
どんな経緯があったのでしょう。

小寺:学生時代からの知人である本社社長のジョシュ・ピアリが、
7年前カリフォルニアでPierry Softwareの前身となる会社を起業していました。
商社にいた私は、商談でジョシュのオフィスを訪問するたびに、
最初数名だった従業員が60名程度にまで増えて、活気が増していくのを目の当たりにし、
急成長の秘訣が気になって仕方なかった。
彼の事業内容を深く聞いていくうちに、デジタルマーケティングに興味を持ち始めました。
そして、彼らのハイレベルで丁寧なデジタルマーケティングの総合サービスを日本で提供すれば、多くの中小企業の悩みを解決できるはず。
初期導入のコストという障壁がこれまではありましたが、
Pierry Softwareは、顧客が利益を出してからコストが発生するため、
企業の導入の敷居を下げることができます。
こうした話をするうちに、日本進出を一緒に実現させようと意気投合し、今にいたります。

――彼らのサービスを日本で実現させる意義を強く感じられたのですね!
京都に拠点を置いたのはなぜですか。

小寺:ジョシュが学生時代に京都に留学していたことや、私が元々京都出身ということもあり、京都への思い入れはありますが、京都は地理的に日本の中心にあるので、
この地をベースに全国へサービス展開をしていきたいですね。

――小寺さんはどんな会社をつくっていきたいとお考えですか。

小寺:本社のDNAでもありますが、社員本社のDNAでもありますが、みんなが協力し、自由闊達に議論できるようなフラットな会社にしたいと思っています。
問題解決は一人ではできません。
日本はもちろん他のアジア諸国や東南アジアも視野に入れて、
デジタルマーケティングで課題解決を手伝える潜在顧客に
私たちのサービスを提供し、メッセージのインフラにしていきたいですね。

もう一つ大事なのは、「家族と過ごす時間」をちゃんと持てる社風を築いていくこと。
Pierry Softwareのサービスの価値もさることながら、
「家族を大切にする」という理念にも強く共感しているんです。
仕事の時間に成果を出し、それ以外は家族と過ごす時間でリフレッシュしてほしいというのが、ジョシュの考え方です。
現に夕方5時にはほとんどの社員が退社していました。
私は、ちょうど子どもが生まれたばかりなのですが、社員一人一人が、家族や友人といった身近な人たちを幸せにできる会社を目指していきたいですね。

――それは素晴らしい理念ですね。小寺さんがこれまで影響を受けた本は何ですか。

小寺:インパクトがあったのは『トータルリーダーシップ』という本です。
これまでリーダーは、組織を引っ張っていくイメージでしたが、
この本によると、真のリーダーは人生の四つの領域(仕事、家庭、コミュニティ、自分自身)をリードしていき、人生の豊かさを得ていくと言います。
私たちが目指す姿と非常に近いものを感じました。

――最後に、グローバルに活躍するために必要なマインドについて教えてください。

小寺:日本でも海外でも「関わる人をどこまで理解し尊重するか」がキーだと思います。
結局、どんな課題も「人」の問題に落ち着きます。
文化の違いや、自分の常識では理解できないことがあっても、
どれだけ相手に真摯に向き合えるかが重要です。
外国語が流暢でなくても、親身になってくれる人のほうが信頼を勝ち得ますから。

☆☆☆☆☆

海外で西洋料理の専門性を身につけ、板前として修業を積んでいたころから
経営者の道を進む現在まで、
彼の生き方を貫く「背骨」に、心を動かされずにいられなかった。

板前時代に発揮された「仲間想い」なところ、そして責任感の強さは、
家族や友人、そして社員を大事にするという姿勢にもつながっているのだろう。

目指す世界はグローバルな市場。
その一方で、目の前の相手と真摯に向き合い、課題を解決することによって
小さな信頼を確実に積み上げていく。
広い視野と、日本料理の心ともいえる「繊細な気配り」を
バランスよく持ち合わせている小寺さん。
彼の生き方こそ、「グローバル」と「ローカル」を掛け合わせた
「グローカル」を体現しているのではないだろうか。

アメリカの最先端のデジタルマーケティングの知見を、
日本の中小企業に、そしてアジア全体へと広めていく。
そんな彼の挑戦の旅を、今後もずっと見続けていきたい。
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2015年05月17日

多様な教育に橋をかけるファシリテーター file.67(後編)

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☆前編はこちら☆

――コアプラスの活動から「自己肯定感」を大事にする雰囲気を強く感じるのですが、
武田さんご自身の「自己肯定感」を生み出した根っこには何があるとお考えですか。

武田:高校時代にお世話になった先生によると、
自尊感情と自己肯定感の2種類があるようです。
自尊感情は3歳までに親子のコミュニケーションの中で決まる。
一方、自己肯定感は色んな経験をする中で培われていく。
幸運にも、両親や近所に住んでいた祖父母、親戚、地域の人たちのおかげで
自尊感情は高く保てています。
言葉でも体でも愛情をめいいっぱい表現してくれた母の影響は絶大ですね。

ですが、私は自己肯定感はあまり高くないことに最近気づいたんです。
地域でも学校でも優等生で通っていたし、
人権サークルで活発に活動することで承認され、褒められることで自己肯定していた。
それって条件付きの承認ですよね。
だから、「社会的な活動をやめたとしたら、私には何が残るんだろう?」という怖さはありますね。
今の活動や肩書をすべてはぎ取った自分にOKを出せるのかと。
幸い、周囲の人との交流の中で、ありのままの自分に少しずつ自信を持てるようになってきたところですね。


――自分を無条件で承認できる「自己肯定感」は
もしかしたら時間をかけて育てていくものなのかもしれませんね。
今度は、コアプラスの活動の中で感じるやりがいと、課題に感じていることを
それぞれ教えてください。

武田:今、コアプラスは変化の時期を迎えています。
少数の理事たちと意思決定も実働もやってきた状態から
コアプラスの歴史を知らないメンバーも増えてきた状態へと変化している。
新メンバーが新しい風を吹かせてくれる一方で、
これまで説明不要だったこともきちんと言葉にしていく必要が出てきて、
意思決定のしくみも整備していきたいなと思っています。

多様性が活かされている状態に完成形はなくて、常に対話をしながら
創り続けていくものだと思っているんです。
そのプロセスの中で対立やすれ違いはもちろん起こるし、
「私も引っ張るから、みんなも自分の「こうしたい」という方向に
引っ張っていってほしいという思いがありますね。

コアプラスって、ビジョンもミッションも
「しっくりこない」と感じたら、みんなで「よりしっくりくる言葉」に変えていくんです。
「多様性が認められる社会を目指す」という方向性にブレはないけれど
「そもそも多様性とは何か?」の部分を固定化せず、
今いるメンバーで考え続けることが大切だと考えています。

コアプラスを、今のメンバーたちも私も育っていけるコミュニティーにしていきたいですね。
一番のコンセプトは、「自分たちの学びの場を自分たちでつくる」ということ。
誰かがつくった研修に参加するよりも、自分たちで研修をつくる方がはるかに勉強になりますから。


――これまで日本国内だけでなく、
オランダやデンマークへと海外へのフィールドスタディーも行われていますが、
武田さんがファシリテーターとして心がけていることは何ですか?

武田:フィールドスタディーでは、参加者一人一人が、「自分の当たり前」の外側にふれて
葛藤や揺れを体験するところに立ち会える楽しさを毎回感じています。
ファシリテーションで心がけているのは、教育観の違う現場をあえて複数回るようにしていること。
大事なのは、訪問先で見聞したものを鏡にして、
自分はどんな教育をしたいのか、学びとは何かという根本を振り返ることなんです。

日常に身を置いている場とは違う教育にふれると、賛成するときもあればモヤモヤするときもある。
振り返りのダイアログの場では、表現しづらいモヤモヤを感じていそうな人に
前もって「どうでした?」と聞いて、その内容を言語化しておいてもらうと、
リフレクションが進みやすくなります。
海外でも日本でも、教育現場それぞれの特徴とともに、
その現場に立ち会ったときに予想される反論や対立の論点を予め想定しておくんです。
何かに向き合ったとき、共感よりは違和感のほうが学びの起爆剤になると思っているので。

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――フィールドスタディーツアーづくりのプロフェッショナルですね。
最後に、今後挑戦したいことを教えていただけますか。

武田:今考えているのは二つあります。
一つは海外のフィールドスタディーを増やしていき、
コーディネーターの依頼ももっと舞い込んでくるようにすることです。
二つ目は、今のコアプラスの事業をわかりやすく統合、整理して、
educator's cafe, educator's labo, educator's schoolをあわせて
educator's communityへと発展させていくこと。
やりたいことを持続可能的にやっていけて、
メンバーが心の余裕をもてるようなコアプラスにしたいと思います。

☆☆☆☆☆

自分の心と社会をまっすぐ見つめられる人。

ピースボートの経験で生まれた「自分の頭で考え、表現する大切さ」という課題意識。
そして、多様な教育観にふれ、それぞれを尊重しながら、
風の人と土の人をつなぐ架け橋となって、よりよい教育をつくり出していく情熱。

「肩書きに左右されない自分」と、変革の途上にあるコアプラスの課題と向き合い、
それを言葉にすることを臆さない強さに彼女のエネルギーの源を感じた。

コアプラスの可能性がさらに花開くお手伝いをしたい。
お話を伺うなかで、この思いが強く心に芽生えた。
教育という、すべての人の人生から切り離せないテーマの深遠さを
つきつけられる大事なひとときだった。
posted by メイリー at 22:25| インタビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

多様な教育に橋をかけるファシリテーター file.67(前編)

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一般社団法人コアプラスの代表理事をされている武田緑さん。
小学校教員と、教育やまちづくりについての研修プログラムづくりの担当者を経て、
現在はコアプラスの事業の中心を担っている。
ファシリテーターとして、「一人ひとりが活かされ、よりよい状況を生み出すための仕事」を目指す彼女の「生き方と想い」に迫った。

☆☆☆☆☆

――コアプラスを始めたきっかけとなる体験や問題意識について教えていただけますか。

武田緑さん(以下、武田):自分が受けてきた教育に対して共感したところと、
後々考えて疑問だったところが、コアプラス立ちあげの出発点です。
大きな転機になったのは、19歳のときに参加したピースボートでの世界一周。
乗客は日本人がほとんどですが、
多国籍のスタッフやクルーに囲まれ、旅の途中で水先案内人となるゲストが乗り降りして
色々なワークショップが開かれます。
そして参加者同士でディスカッションが行われる。
例えば、中国や台湾の人たちと教科書問題や戦後補償の問題について話すこともあれば、
環境活動家のカナダ人が捕鯨問題について話をしたら
日本人が「鯨を食するのは日本の食文化」だと反発しました。
学べば学ぶほど、わからないことが増えていき、
必死に考えて、自分なりの考えを、自分の言葉にできたときの解放感を味わいました。
学ぶことって世界とつながっていき、自分が自由になることなんだなと。

これまで私はしっかりと自分の意見を持っているほうだと感じていましたが、
自分の意見を発表して、おっちゃんから生まれて初めて反論されたときに
「自分自身の意見だと思っていたものは、親や先生の受け売りだったんだ」と
大きな衝撃を受けました。
受け売りの意見って、少し反論されただけで脆く崩れ落ちてしまう。
自分で情報を集めて掘り下げていった意見でないと役に立たないと思いました。
ピースボートでのインパクトがあまりにも大きすぎて、
「これまで受けていた教育を変えなきゃ」という強い思いが芽生えたんです。

――その後の人生に大きな影響を及ぼす出来事だったのですね。
ピースボートに乗ろうと思ったきっかけは何でしたか。

武田:元々、国際系の科目が充実している高校に通っており、海外に興味があったんです。
直接的なきっかけは、18歳で人生最大の失恋をした相手がピースボートに乗っていたこと(笑)
当時の私にとって刺激的で尊敬する人でしたし、ピースボートの経験者が身近にいたことで、船に乗ることが現実的な選択肢になったんです。
ちょうど前向きに大学生活のスタートを切ることができず、
気持ちを切り替えるためにも「学外で何かしよう」と思い立ち、
ピースボートのボランティアセンターに1回生の5月に通い始め、船に乗ったのが10月でした。

――実行に移すまでスピーディーですね。その行動力は昔からですか?

武田:生徒会役員や行事のリーダーをしていたりと、行動力がなかったわけではないですが
周囲の大人から勧められた上での挑戦が多かったんです。
ピースボートは初めて自分自身で下した大きな決断だったといえます。
勢いって大事ですね。

――ご自身の価値観や生き方に影響を与えた人との出会いについて教えていただけますか。

武田:ピースボートで最後に講演をしてくださった脱原発の活動をされている
田中優さんとの出会いは大きなインパクトがありました。
「生き方も仕事も、自分がいいと思うものがなければ
今存在している型にはまらなくても、自分でつくるという選択肢もあるよ」と述べておられて、
腑に落ちましたし、精神的な自由が広がっていく感じがしました。

田中さんの言葉でもう一つ印象の残ったものがあります。
それは「人には、『風の人』と『土の人』の2種類がいる」というもの。
「風の人」は新しいものを取り入れ、色々な場をめぐっていく。
「土の人」は一つの場所で1つのテーマ・問題を掘り下げていく。
往々にして、風の人は土の人に対し「視野が狭くて、古くさい」と感じる一方で、
土の人は、「風の人は流行を追いかけて、地道さが足りない」と感じて、互いに溝ができやすい。
ですが、両者が手を取り合ったときに、風土が生まれ、
それで初めて社会が変わり始めるのだと田中さんはおっしゃったんです。

――「風の人」と「土の人」両方が欠けてはならない存在なのですね。

武田:私はこれまで同和地区の地域コミュニティーという、
「土の人」に囲まれた生活をしてきました。
地域のテーマとしての同和問題と向き合ってきましたが、その限界も感じていたんです。
私自身は「風の人」と過ごすほうが楽なのですが、
今意識しているのは、風の人と土の人の橋渡しをするのが私の役割だということ。

コアプラスを本格的に始める3年前は、
自分が育った土的なコミュニティーからなかなか認めてもらえず、
かといって愛着やこだわりがあって離れらない葛藤を抱いていましたが、
それなら、風の人と土の人がお互いにわかりあい、役割分担できるように、
両方の人と話ができる人になろうと決めたんです。

☆後編につづく☆
posted by メイリー at 21:41| インタビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月10日

「食」を中心に地域の良さを発信し、縁を「結ぶ」人 file.66(後編)

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☆前編はこちら☆

――川村さんがそうした動機を抱くようになった具体的なエピソードはありますか。

川村:何か一つの大きなきっかけがあったわけではありませんが、
農家の方から「俺の畑を見にこいよ」と言われ、生産現場を直接見れたことや
生産者の想いを生で聴けたことの積み重ねが、
私の原体験になっているんだと思います。
若い農家の方が「俺は将来、この土地をしょって生きる。
地域の農業の課題に向き合いながら、食の生産現場を担っていきたい」などと
真剣に語る姿に心を動かされました。

――「俺の畑を見にこいよ」と言われるほどの信頼関係を作れるのは
なかなか誰にでもできることではないと思ったのですが、よくそう言われませんか。

川村:めげずに攻めていったのがよかったのかもしれません。
箱根ファーマーズカントリーの方々にも
何度も会いたいとお願いしていたら、最初はうやむやにされていましたが、
私の本気が伝わったのか会うチャンスを作ってくださり、
次第に、定期的に飲み会に呼んでもらったり
イベントに参加させてもらったりと関係性ができていきました。
結屋の事業として、野菜ジェラートの企画販売という形で
共同で事業が出来たことも非常にありがたいですね。

――私だったらめげていると思うのですが…!

川村:未知の土地でゼロベースで始めたので、失うものはないですし、
動いたら動くだけプラスになるんですよ。
猪突猛進で動いていたこの時期が、今も続く大切なつながりをつくってくれた。
三島の飲食店に食べに行って、「こういうことを知りたいんです」と言うと、
その関係者を紹介していただいて、すぐにそこに赴いた。
これが三島バルの基盤にもなっています。

バルの出店は最初45店舗で、6回目となる昨秋は119店舗へ。
第1回の開催の時は「この企画をやるしかない」と腹をくくり、
手書きの企画書をもって三島の飲食店を100店舗ほど開拓しましたね。
「いきなりこられても困る」と突き返されたこともあるし
情報伝達でトラブルもありました。
そんな手探りのなかで開催した第1回目でしたが、
来場者は約1000名と、予想以上に多くのお客さんが来てくれたんです。
「昔のにぎわいが戻ってきたみたい」と喜ぶお店の方を見ると、苦労が報われましたね。
第6回の現在では、約3300名の方が参加下さっています。

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――新しい企画を立ち上げることと、それを継続させること。
両者においては求められるものが違うと思いますが、川村さんはどう感じますか。

川村:立ち上げ時は想いがあれば瞬発力と勢いでいけますが、
継続させるためには、内容をブラッシュアップしつつ、仕組みづくりも必要になるので
後者の方が大変だなと感じています。
出店してくださる店舗の方々にも来場者にも満足してもらえるような工夫を続けていきたいですね。

ーー大変な状況も乗り越えられる原動力は何でしょうか。

川村:地域の人たちのおかげで成長できたので、恩返しをしたいという思いが根っこにあります。
身近な人が喜んでくれる顔が見られる。
そして「三島っていいね」と思う人が増えていき、「いいね」の連鎖が生まれていく。
こうした小さな幸せの積み重ねが私の原動力になっています。
悩むこともありますが、着実に行動を続けて、
もっと三島をよくしていきたいと思っています。

――結婚されてから、考え方に変化はありましたか。

川村:事業のための時間と家族と過ごす時間とのバランスについて考えるようになりましたね。
以前は自由に動けて、夜12時から飲食店で打ち合わせなんてこともありました(笑)
多少の葛藤はありますが、「自分の時間ももちなよ」と気遣ってくれる夫の存在は貴重ですし、
二人の時間も大事にしていきたいですね。
だから今は、自分の行動において、「引き算」が大事だなと思っています。
捨てることを決める時期というか。
先日ある方の講演で「100人の女性がいたら100通りの働き方がある」とありましたが、その通りだなと。
他の人の事例はあくまで参考材料であって、
最後に決めるのはやっぱり自分自身だなと思います。

――個人的に共感するところがたくさんあります。
最後に、これから挑戦したいこと、将来の夢をきかせてください

川村:地域の食のよさを伝えるしくみづくりに力を入れていきたいですね。
三島バルや情報発信にくわえ、飲食店を始めたいと思っている人が学べる場など
この地域の食や文化の豊かさを次世代に伝えていける一連の流れを生み出せないかなと。
まだ構想段階ですが、飲食店や農家が生み出す味や体験を一つずつ掘り起こしていきたいですね。

☆☆☆☆☆

見知らぬ土地でも自ら道を切り開くバイタリティ。
そして、着実な一歩一歩が生み出す変化を大事にできる感性。
この両方を持った方だと思った。

地域の人たちが喜ぶ顔を見たい、食の良さを伝えて恩返しをしたい。

彼女の内なる炎は、周囲の人たちの情熱にも火をともし、
協力者や応援者を増やしていくのだろう。

ただ突き進むだけではなく、自分の本当に大事にしたいものを見つめ、
「引き算」を考える時間の大切さをも教えてくださった。

2015年秋にも開催される三島バルにはぜひ参加したい。
そして彼女の構想が形になっていくのを見続けていたい。
そんな思いでいっぱいになった。
ラベル:地域活性
posted by メイリー at 18:47| インタビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「食」を中心に地域の良さを発信し、縁を「結ぶ」人 file.66(前編)

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株式会社結屋(むすびや)の代表をされている川村結里子さん。
はしご酒イベント「三島バル」の運営や、
箱根ファーマーズカントリー俺っちの野菜ジェラートの企画販売など、「食」を中心としたコミュニティー事業を展開している。

伊豆高原に拠点を置き、伊豆の活性化にも携わっている、
私の尊敬しているキャリアカウンセラーの方から、
「三島にこんな素晴らしい活動をしているバイタリティあふれる女性がいるよ」
と教えていただいた。

静岡県三島市に住んでいる私は、彼女のFacebookでの発信を読みながら、
「食に関わる人たちをつなげて、飲食店や農家などの生産者の良さを伝えていく」という彼女のミッションに迫りたいという思いが強まり、インタビューの機会をいただいた。

☆☆☆☆☆

――株式会社結屋を立ち上げるまでの経緯をお聞かせいただけますか。

川村結里子さん(以下、川村):2009年3月から、生まれ育った東京を離れて三島市に移り住み、
おにぎりカフェの店長になりました。
三島にある母の生家をリノベーションしたカフェの運営をお願いしていた人が急遽やめるということで、
運営を引き継がなくてはいけなくなって。
ちょうど、勤めていた住宅メーカーを辞めて一区切りつけようかというタイミングで、挑戦することに決めました。
未知の土地で、知り合いもほとんどいない中でのスタート。
まずは知り合いをつくろうと、ふるさとガイドの会など、三島のボランティアにいろいろ参加しました。
色々と顔を出すうちに、商工会議所の青年部に声を掛けてもらい、
知り合いが増え、カフェも知ってもらえるようになりました。
がつがつ行動する若い女性が珍しかったのかもしれませんね。

彼らと接していて感じたのは、「三島が好き」という思いの強さ。
東京で暮らしていたときの「隣人の顔も知らない」という状況と対照的でした。
「地域のコミュニティー」という概念を教えてくれた三島に
恩返しをしたいなという気持ちが芽生えたことが
2011年3月に株式会社結屋(むすびや)の立ち上げにつながりました。

――すごい行動力ですね! 新しいことに挑戦していくのは、子どものころからでしょうか。

川村:小さいころは内向的で、漫画を描くなど一人で作業するのが好きな子でした。
親の管理が厳しく、自分から挑戦していくというのはほとんどなくて。
ですが、親の管理から離れた大学時代にスイッチが入ったのか、
自分で決めて動くようになりましたね。
学科が建築系だったので美術館や展示にどんどん足を運びました。
インカレの弓道部を探し出して入部し、これまで接したことのない人たちと
交流できたのはよかったなと思います。

――建築を専門にされていたのですね。建築に興味があったのですか。

川村:実家が設備会社で、親から「建築方面に行ったらいいんじゃない」と勧められました。
結果的には2級建築士の資格もとれたし、後悔はしていませんが、
強くこれをやりたいというのは当時なかったですね。
就活では住宅メーカーに内定をもらいました。
ところが、これまで自分の気持ちを抑えていた反動からか、
社会人になるタイミングで、ずっと憧れていた演劇の世界に飛び込んだんです。

――演劇ですか。大きな決断をされたのですね!

川村:住宅メーカーで働きながら、夜に演劇学校に通っていました。
休み時間に屋上で発声練習をし、
帰りに公園で発声や滑舌を練習するために、歌舞伎の外郎売 (ういろううり)の台詞を音読する。
そんな生活を2年間続け、自分の情熱や将来性を考えたときに
私は演劇向きではないなと思い、仕事一本に絞りました。
営業のイベント企画・運営にやりがいを感じていましたが、
もっと自分で生み出せる仕事がしたいと思って。
イベント用のチラシづくりに活かせるよう、デザイン学校に夜間に通い始めました。
その矢先におにぎりカフェの話がきたという感じです。
今思うと大胆な決断をしてきたなぁと思います。

――選択と決断を積み重ねてこられたのだなぁと感じました。
おにぎりカフェでの日々はどうでしたか。

川村:経営も接客も一人でゼロからのスタートでしたが、
ギャラリー展示や、食や芸術のイベントを開いて、
お店の認知度が上がり、色々なつながりができていました。
食について話し合う会を開き、飲食店さんや農家などの生産者の想いやこだわりを知る中で、
「伝え方を変えれば、その良さがもっと伝わるはず」と思うようになり、
「食」のコミュニティーづくりと発信という結屋の事業を始めようと決めました。
またに「結里子」という名前にあるように「結ぶ」というのは
自分にとって非常に大切だと感じたんです。

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――食のつながり、そして「伝えること」がキーワードになっていったのですね。
そこからどんな風に事業化を進めていかれたのでしょう。

川村:おにぎりカフェをやめてから1年ブランクがあったのですが、
その間に富士市の知り合いがやっている「まちづくりNPO」のお手伝いをしたり、
NPOグランドワーク三島が主催の、地域で活躍する人を増やす為の研修を受けたりしました。
「食を通じてのコミュニティーづくりをしたい」と計画書を出して、
採択され、支援金をいただいたことも、法人設立の後押しになりましたね。
事業内容のブラッシュアップのために相談にのってくれたメンターが、
たまたま社会起業大学の元学長で入学を勧めてくれて、結屋を立ち上げつつも半年間通うことになりました。

――社会起業大学に通われて、よかったことは何でしたか。

川村:自分の事業を支えるシンプルな動機(原体験)をつきつめて考える機会を
たくさんいただけたのがよかったですね。
ここがブレてしまうと、壁にぶつかったときに心が折れてしまう。
「何のためにこの事業をしたいのか?」を掘り下げたことで、
おにぎりカフェで出会った人たちから学んだ
「食」の尊さやつながりの大切さを伝えたいという根本の想いに立ち返ることができました。
あとは、一緒に学んだ仲間同士で、互いの事業プランの改善点を伝えあい、
全力で応援し合えたのは、貴重な経験でした。
今でも連絡とりあって、刺激をもらっていますね。

☆後編につづく☆
posted by メイリー at 18:32| インタビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする