2015年04月21日

キャリア支援で日本を変えていく現代の熱き志士 file.64(後編)

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前編はこちら

――想像を絶する光景ですね…!
この時期の経験が今の人材育成観につながっているのでしょうか。

熊澤:多少影響しているでしょうね。
商売や労働時間が違っても、国籍が違っても、一緒に働く期間は限られていても、
共に働くスタッフ一人一人が楽しく働けるように気を配っていたのは、
小さいころからの影響をくれた人たちのおかげでしょう。
彼らが帰るときは誰よりも大きい声で「おつかれ」と言う。
良からぬ道に足を踏み入れそうな影のある子には「週2は必ずうちのバイトに来いよ」などと伝え、
彼らの相談にものっていました。
別に特別なことをしていたことは無いし、当たり前のことをしていたと思います。

これは自慢なんですが、私が店長をしていたときは
「店長が死ぬほど働く・・・」みたいなことは起きず、人手不足で悩んだことはありませんでした。
今、振り返ると、スタッフにやめたいと言われたことはありませんでした。
むしろ他の仲間を店に引っ張ってきてくれて、「こいつも働かせてやってください」と言うくらい。
みんなでいかに利益を出していくか知恵を絞って働くチームに自然と育っていきましたね。

結局、この仕事が本当に世の中のためになっているんだろうか?という疑問が頭をもたげ、
政治家秘書へ転身しましたが、「社会をどう次世代に引き継ぐか」というテーマがずっと頭にありました。
それが「時代を繋ぐ旗印になる」というキャリアフラッグの経営理念にも引き継がれています。

――そこまでスタッフや後輩のために動けるのはなぜなのでしょう。

熊澤:自分たちが上の人たちにそうやって育ててきて頂いたからです。
よくしてくださった先輩たちに何とか恩返ししようとしたら、
「後輩が困っていたら助けてやればいいんだ」と言われたのを今も覚えています。
社会に出て約15年経ちますが、次の社会を担う若者たちに
自分が何を引き継げるだろうかと常に考えさせられますよね。

――熊澤さんは高校時代応援団をされていたと聞きましたが、
応援団に入ったきっかけは何でしたか?

熊澤:きっかけは先輩に誘われたことですが、
親に逆らいたいという気持ちが根っこにありました。
キャリア支援の世界の言葉で言うなら、親と違う価値観をもった自分を自分で認めたい・・・ということですね。
進学校に通っていたのですが、親から「勉強しろ」と言われるのがいやで、
それに対抗できる自立した価値観の土台がほしかった。
応援団は他の部活と違って、誰でもできるようなものではないと思っていたんです。

――応援団ではどんな日々を送っていたのでしょう。

熊澤:3年間、修行寺みたいでしたね。
朝7時には校門前で拍手の朝練を1時間。
拍手し続けていると手から血が出て、最初は赤いんですが、徐々に白い液体に変わっていきくような状況でも、「音が出てない!」と先輩から、ご指導を頂く。笑。
男子校だったこともあり容赦なかったですね。
もちろん、昼練習と午後練習もバッチリある。
経験したことない人には理解し難い世界でしょう。
でも当時の自分にはそれが普通のことでした。
だから私たちが、他の運動部の部活の試合の応援に行くと
その同級生の運動部の部員たちは「お前らに応援されたら、歯を食いしばってでも負けられない」って言って、笑っていましたよ。

――応援団での経験は、今の仕事へのスタンスにも影響しているのでしょうか。

熊澤:そうですね、今日も夜遅くまで大学のキャリア講座について
メンバーと企画を練り続けていましたし
必死に考えて行動するのが当然というのはあります。

――インタビューをしていると、仕事にやりがいを感じる瞬間があるという人も、
目の前のことに没頭しているからやりがいなんて意識したことがないという人もいるのですが、
熊澤さんの場合はどうでしょう。

熊澤:日々必死に生きている人はやりがいを意識しないか、
または「日々感じ続けている」んじゃないでしょうか。
時々感じるというほうが不思議。
孫正義さんがジョークをまじえて「頭が禿げるまで(事業のことを)考えろ」とおっしゃっていて、
そういうのには憧れますね。夢に仕事の場面が出てきますからね。
部活時代や、ラーメン屋の時から、ずっとですが、、、

――では、逆に壁を感じたことってありますか。

熊澤:毎日が壁にぶつかる日々ですね。
前に進み続ける生き方しかしてこなかったので壁ばっかりですよ。
ボクシング・チャンピオンにもし「優勝したら、ほしいものは何?」と尋ねたら
「チャンピオンベルト」って言うに決まっていると思うんですよ。それしか見えてない。

――熊澤さんにとっての「ベルト」は何なのでしょう。

熊澤:それが今はキャリア支援なんでしょうね。
目の前の学生が頑張ろうと一念発起しているのを支えたい。
そして、学生たちに変わってもらうために、真剣に考え始めている大学職員の方々を何とかサポートしたい。その一心ですね。

☆☆☆☆☆

熊澤さんの背中に赤い炎が見えた。
まるで維新の志士たちに会ったような感覚だ。

ラーメン屋の統括をしていたときの臨場感あふれる彼の語りには、つい吹き出してしまった。
キャリア支援への使命感を語られたときには、知らぬ間に涙が頬をつたっていた。
それくらい彼の人生が起伏に満ちていて、
彼の伝えるメッセージが強烈に心に刻み込まれたからだろう。

壁を感じるのは毎日という、前に進み続けるのが当然という常に真剣勝負な生き方。
ご自身はそれを特別なこととは感じていない。
ただ目の前の困っている人を助けたいだけ。
彼の一点の曇もない高潔な志と、利他精神に圧倒されてしまう。

ちょうど私はインタビュー当時、キャリアの転換期に差しかかり、
あらゆる感情が心の中でかき回されている状況だった。
サイトの向こう側にいる、夢を追いかける人たちはもちろん、
そんな私の心にも火が点くよう、
こんなにも熱く語ってくださったのだろう。

その思いやりに深く感謝すると同時に、
この学びや感動を次世代に届けるべく、動き続けようと心に誓った。
posted by メイリー at 09:42| インタビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

キャリア支援で日本を変えていく現代の熱き志士 file.64(前編)

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熊澤匠さん。
顧客開拓・人事営業を経験後、社内の年間100回に及ぶ就職セミナーや、
大学内の就職ガイダンスの講師を務め、2010年にキャリアフラッグ株式会社を設立した。
学内キャリア授業や就活セミナーを企画展開し、数校の大学内の非常勤職員を務め、
就業力育成支援事業にも携わる。
紹介いただいた方から「赤い炎をもつ人」とお聞きし、
HPからでも伝わってくる情熱の背景に迫りたいと思い、お話を伺った。

☆☆☆☆☆

――まず、キャリアフラッグの活動について、教えていただけますか。

熊澤匠さん(以下敬称略):キャリアフラッグでは、株式会社PUFFさんのお手伝いでウルトラインターンという学生たちが、ありとあらゆる業種・職種の社会人にアポを取り、
OBOG訪問するプロジェクトを運営しています。
ポイントは、学生たちが自ら行動する力を醸成できるような「ホームルーム」を設けているところです。

6年前にこれとほぼ同様の企画を行っており、「OB訪問 十五ヶ条」という本にまとめています。
大事なのは本人たちの自発的な挑戦の意志なのですが、
「自分が弱みを見せて泣ける場」や「自分を育んでくれた場」がないと、
学生たちは安心して挑戦できないんですよ。

――「自分を育んでくれた場」ですか。

熊澤:「育まれてきたという実感」は非常に大事。
例えば「家族はありがたい存在」という意識をもてるかどうか。
家族以外にも友人など、信頼できる人、
つまり足場をつくっていくサポートをするのが私たちの役割ですね。
友人という足場ができると、今度は親に反抗して自分の世界を広げられる。
自分で足場をつくってこなかった学生には、
まずは講師である私たちに頼ってもらうところからのスタートです。
私たちは、この足場を世の中にたくさん増やしたいと思っています。
キャリアフラッグはあくまでその一つ。
講師は風をふかすけれど、あなたがあなた自身の足場の上に旗を立てるんだよと。

――家族や友人など複数の「足場」があるからこそ、新たな挑戦ができるのですね。
キャリアフラッグを立ち上げようと決めたきっかけは何でしたか。

熊澤:リーマン・ショックの影響で前職を辞め、自分一人でやっていこうと決めたのがきっかけです。
元々キャリア支援の経験を積んで、市場感覚ももっていたので
先輩からも「やったほうがいいよ」と後押しされました。
仕事において「これをやりたい」というのはあまりなく、
ただ目の前の困っている人を応援したいという思いで動いているんです。
前職で、どんな企業を受けてもバシバシ落ちて
内定を得られない子たちを目の当たりにした。
本来義務教育をきっちり受けたら仕事に就けるのが当然なのに。
でも実際には、友達を作る方法すら実地でちゃんと学んでこなかった子さえいる。

――そんなに厳しい現状なのですね…。

熊澤:大学も含めて社会に出る直前の学生を抱える教育機関の多くは、
学習や基礎能力が開発され終えたという前提に立っているので、
学生の何の能力を開発したいのかについて明確なポリシーがなく、
教育の「教える」の部分はやっていても「育てる」の部分が疎かになっている。

だから自ら足場をつくる力を身につけていないまま就活を迎える子が増えてしまった。
新聞紙面で書かれる流れの就職活動に乗れなかった学生たちを集めて、
面接で声を出せるようにと、大縄跳びをさせたことがあります。
ところが、縄をまわす人を決める段階から、戸惑ってしまう。
みんなで話し合って良い策を考え出すまで時間がかかるという有り様です。
仲間との距離を作る能力を鍛えずして、どうやって見ず知らずの社会人との距離をつくる「面接」に立ち向かえるのでしょう?

みんな就活で初めて危機感を覚えるんですよ。
危機感に対して戦おうというのは、ある程度受験の世界で打ち勝ってきた人の発想です。
成功体験をもっている学生の発想です。そうじゃない子の大半は逃げてしまう。
危機感にどう対処するかを学ばずにきてしまったし、
それが大事だと知らずに育ってきたからです。

こういう学生を抱えて困っている大学の現状を知ってしまったからには
そこで必死になっている教職員の方々を、放っておけないんですよね。
最終的には僕たちの手を借りなくても真の教育が大学で行われている状態になることを願って、
志のある大学の教職員の方々と協力して企画を練る日々です。

――困っている人がいたら放っておけないのは昔からですか?

熊澤:小さい頃からの刷り込みですかね、きっと。
35年ほど時間を巻き戻しますが、僕は長男で弟と妹がいて、
「お兄ちゃんなんだから支えてあげるものよ」と親から言われ続けてきたのが記憶の原点です。
国立の教育大付属の小中一貫校に通っていたのですが、
小学六年生が下校中の一年生を見つけたら、手をつないで一緒に帰るのは当然の風景だった。
バスの中でも、定期を見せて運転手さんに挨拶をして乗り降りするのは当然で、
「下級生にお手本を示すべき」という教育方針が徹底しており、
卒業式の予行演習でも何度も起立!礼!を何度もさせられて、
「在校生にどんな背中を見せるのか」、「何を伝えて出て行くのか」を、とことん考えさせられましたね。
だから次世代に何を渡していくかを自然と考えるようになったのかもしれません。

――よく「多くのものを背負っている」と周りから言われませんか?
熊澤さんの使命感の炎を感じます。

熊澤:政治家秘書を務めていたときに、
「世の中を少しでも良く変えていきたい」という志を本気で実現させようとする政治家たちや、その支援者の方々にたくさん会ってきたからだと思います。
高度経済成長期を支え、今の日本を築いてきた世代の人たちから
激励を受けることもしばしば。
手も震えておられるくらいにお年を召した支援者の方とお酒を飲んでいて
「日本を頼むよ」という言葉をいただいたことがあるんです。
もうこっちが震えて酒が飲めないよって(笑)
これは何とかせずにはいられないですよね。

――それは震えますね。政治家秘書をされていたのは、いつ頃のことだったのですか。

熊澤:27、28歳の頃ですね。
その前はラーメン屋を何店舗かFC経営していたこともあります。

――そのときのお話を聞かせていただけますか。

熊澤:新卒で入った営業職に慣れてきて、退屈さを感じ始めていたら
とある大手FCチェーン飲食店から店舗をいくつか統括してほしいと
お声がけいただき転職したんです。
現状の退屈さからの逃げと、評価されたことに調子に乗って転職を決意しました。

ですが、当時狂牛病などの影響もあり、急きょ隣接部門のラーメン店のアルバイトになったんです。
任されたのは、夜9時から朝5時まで毎日満席で、行列がズラーっとできるほどの繁盛店。
夜勤アルバイトの多くはアジアの留学生です。グローバル?ですかね。
最初は店でモチベーションリーダーしかできませんでしたが、
そのうち、彼らのマネジメントそしてお客さんのクレーム対応を一手に引き受けました。
気が付いたら、社員にしてもらっていましたし、一晩で1000杯くらい売れてましたので、
完全に肉体労働で、麺とスープ合わせて2000回、
お風呂の小さな桶を掬い上げているような体への負荷ですね。
お客さまの注文状況を全部頭に入れ、大混乱の店舗でスタッフの中国語を解読する。
しかも彼らは様々な方言をしゃべるのでお互いが通じてないこともある。
そのうち、何語なんだかわからなくなる店内で、口も手も高速で動き続けて、もう千手観音みたいでしたよ(笑)ワールドカップの時期には店で暴れる外国人の泥酔したお客もいましたし。
やくざ稼業の方と向き合ってMTGした?こともありますが、日本語が通じるだけマシ。
キャリア教育の世界とだいぶ違うでしょう(笑)

☆後編につづく☆
posted by メイリー at 09:34| インタビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月18日

勉強嫌いから一転、真の国語力を伝える起業家 file.63(後編)

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――それほどのプレッシャーや大変さがあったのですね。
その状況をどのように乗り越えていったのでしょう。

高橋:教師としての知識の引き出しも経験もないところから、
他の先生方が授業で使うワークシートを見たり、授業見学させていただいたりと必死で試行錯誤するうちに、一学期が終わるころには何とか授業が形になってきました。

年に一回研究授業の発表会があり、文科省の視察官や教授、先生方が全国から授業を見に来るんですが、そこで研究授業をやることになって…!
研究課題は「PISA型の授業を全教科でやる」というもの。
ノイローゼになりそうでしたが、今思うと良い経験でした。

――大舞台を経験されたのですね…!その後は専任講師の道へ?

高橋:私立中高一貫校の専任講師になりたいという夢はずっとあり、
とある私立進学校から面接に来ないかと電話をいただいたんです。
試験に必要な模擬授業の構成案を横国の大ベテラン教師のおさむ先生に見せたら
「高橋はどんな授業をやりたいんだ?」と指摘されて。
ここでこれだけ工夫を凝らした授業をやってきたんだから、
お前が本当に教えたいことを、その学校へぶつけろと言われたんです。
そこから急いで構成案を書き直して模擬授業に臨んだら、
試験後たった30分ほどで「全会一致であなたを採用することに決まった」と電話がかかってきて!
2010年に副担任を務め、翌年には念願の担任をもてることになりました。

――そこから起業へと方向転換したのは何があったのでしょうか。

高橋:東日本大震災が私を変えた転機でした。
震災当日、東京では交通機関がマヒし、帰宅できない生徒たちの炊き出しのために
夜中に自転車で学校に戻ったのですが、テレビで惨状を見て「大変なことになった…」と思いました。
そのとき「こんな不確実な時代に、これから私は教師として子どもたちにどのように向き合えっていけばいいのだろう」という疑問が浮かんだんです。
震災直後、中高生の間にもスマホやLINEが一気に浸透しました。
LINE上で非難している子どもたちの光景に、大きな違和感を覚えました。
親しい友だちとケンカしても、面と向かって直接何も言わずに
「相手のことを配慮しながら思いをぶつけあう」という場が減っていく一方。
LINE上のみで会話をし、非難し合っている子どもたちの光景に、大きな違和感を覚えました。
LINEは表現ではなく、一次的な表出にすぎない。
私はいったい何を育んでいるんだろう?と自問自答しました。

現代文は、世の中のあらゆるものがつまった科目なのに、
教師の世界しか知らない自分が、一クラス40人の子どもたちを
自分の枠の中で捉えた唯一の理解へと導いていくことにあるとき怖さを覚えたのです。
学校以外の世界をもっと知らなくてはという思いに駆られ、
専任講師になって3年目で、起業するなら今だと決心しました。

友人から「事業の計画書を書いてみたら」と言われ、
書き出したら、たった3,4時間でA4の紙が4,5枚になっていたんです。
「これだけ現実的ならやってみなよ」と言われたのも後押しになり、
なんと夏休み中には教室の物件を契約し、翌年3月には学校を退職しました。

――ここまで頑張れるのは何でしょう。

高橋:私って「これだ!」と思ったらそれを全力で追求してしまうんです。
典型的な猪突猛進タイプ(笑)
また、石上先生の影響は計り知れないですね。
教師を目指し出してから「生きるって何?」「国語って何?」という根源的な問いを何度も何度も投げかけてくれました。
国語はあくまでツール。
国語を通じて「自分の言葉で考えることの大切さ」を伝えたいという思いがあるんです。
塾講師から起業する方は多くいますが、教師から起業というルートは異色。
経営のスキルもないから一から勉強して、WEBサイトも自ら見よう見まねで作りました。
「今しかない」という心の声を聴いた結果ですね。

――起業してみてどうですか。

高橋:経営者としての苦労は尽きませんが、やってよかったと心底思います。
学校では生徒がいるのは当然でしたが、起業すると教室運営もコンセプトも生徒集客も全て自分のアタマで一から構築しないといけない。
初めて体験授業でいただいた授業料の2000円は今でも忘れられませんね。
本当に自分が一から稼いだお金なんだと。
進学塾、国立校、そして私立校。
様々な教育現場を経験してきたからこそ、今の二コラがあると思っています。

――二コラでは生徒さんと紅茶を飲みながら何時間も話をするという場面もあると聞きました。
生徒さんと向き合う時間を大事にされているんでしょうね。

高橋:二コラは生徒がリラックスできる「放課後」の空間というイメージなんです。
生徒がくつろげるように季節の草花を飾っているし、友人関係や進路の相談にものる。
そうすることで、生徒との距離を縮められますからね。
季節の花を飾っている理由はもう一つあって、
生徒たちに、季節を感じられるきれいな心と命をいつくしむ気持ちを持っていてほしいと思っているんです。
国語に出てくる文章にはたくさんの草花の名前が登場します。
その色や香りを自分でしっかり体感した上で子どもたちに伝えられたらと思っています。
季節の移り変わりや景色の変化を見て、思いを馳せられる方が、人生が豊かになる。
本と自分との共通点を見出すことで、心が救われることだってある。
そういう瞬間をつくるお手伝いができたらいいですね。

――子どもたちが考えを深められるように工夫していることは何ですか。

高橋:彼らの多くは「考えなさい」と言われても「どう考えたらいいか」がわからない。
「考える」ための方法がわからないんです。
たとえば、小説の登場人物たちの関係を文章とじっくり向き合わせながらマッピングで整理させながら読解のとっかかりをつくり、
彼らの引き出しが増えるようにと心がけています。
小論文を書こうにも、自分の考えがなければ書けませんから。
考える楽しさを味わってもらいながら、自分の言葉で自分なりの考えを発信していってほしいですね。
不確実で変化の激しい時代だからこそ、ますます自分の考えの軸が必要だと思いますから。

最近「起きることには全て意味がある」とつくづく思うんです。
恩師の石上先生も、横国でのチャンスを紹介してくれた細川さんも、
模擬授業の構成案を見てくれたおさむ先生も、
そのタイミングで出会うべくして出会っているのだと。
お世話になった人たちみんなが見守ってくれていると思うと
下手なことできないなって思うんですよね。

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☆☆☆☆☆

頭に浮かんでくるチャンスを逃さずキャッチし、ものにしていく圧倒的な行動力とバイタリティー。
そこには、たった一冊の古文の問題集との格闘から始まった
「やればできる」という強烈な原体験が影響しているのだろう。

恩師の石上先生や横国時代のおさむ先生のように、
岐路に立ったときに正しい方向性を見つけ出す後押しをしてくれるメンターに恵まれてきた彼女。
人一倍強い信念と鋭敏な感性をもって生徒と向き合い続ける彼女の姿を見て、
つい応援したくなるのだと思った。

生のコミュニケーションを避けようと思えばどこまでも避けられる昨今。
「私はいったい何を育んでいるんだろう?」という彼女の問いは、
教育業界にいた私の胸にも大きな跡を残した。

国語力=人間力という彼女の言葉には、
どんな教育現場でもベストを尽くし続けてきた彼女の経験ならではの輝きがあふれていた。

教師の経験と専門性、そして個性が光る私塾が
どんどん広がり、浸透していくことを願わずにいられない。
posted by メイリー at 00:08| インタビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月17日

勉強嫌いから一転、真の国語力を伝える起業家 file.63(前編)

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高橋麻樹子さん。 
大学院で国語教育の研究に打ち込み、中学受験進学塾 日能研にて中学受験国語を5年間指導。
その後、都内私立中高一貫の女子校、横浜国立大学附属横浜中学校の講師となり、
PISA型「読解力」の授業を実践してきた。  
その後中高一貫女子校の専任教諭として活躍する中、
インターネットやSNSの普及によって、子どもたちの感受性や想像力、
自ら問題意識を持って思考し表現する力が鈍くなってきている現状に危機感を抱く。
 
2013年、女子のための国語専門塾「NICOLLA」(ニコラ)を立ち上げる。
「国語力=人間力」という考えのもと、
真の考える力を身につけられる授業を展開している。
こうした志をもつに至った背景を、インタビューさせていただいた。

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――まずは、二コラの理念について教えていただけますか。

高橋麻樹子さん(以下敬称略):「一つの文章と向き合う」ことを通じて、
子どもたちに「自分を取り巻く世界をしっかりと自分のアタマで考え、自分の言葉で表現できる力」を育むことを目標としています。
「読解は問題を解ければいいんでしょ」と誤解して、テクニックに走る人もいますが、
本来の読解は、読んで理解すること。
情報や環境問題、心理学、芸術など現代社会のあらゆる問題が詰まった文章を読む中で、
自分自身が生きる「現代(いま)」を知り、自分と問題をひきつけて考えられる。
そんな子を増やしたいなと思っています。

例えばプロポーズで相手が喜ぶ言葉を考えるのも、
商談で成功させるために相手に何を、伝えようかとプレゼンを考えるのも、みんな国語が関係しています。
「国語力=人間力」なんですよね。
漢字や語句、文法の知識を積み上げていくことも自分の思考の幅を広げ、表現を豊かにするために、とても大切だと考えています。
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――「国語力=人間力」なのですね。
こうした国語力を伝える人になりたいと思ったきっかけは何でしたか。

高橋:国語に目覚めたのは高校2年生のときです。
それまでは勉強が大嫌いで、「絵を描くのが好きだから美大かな」くらいにしか考えていませんでした。
中学受験で「合格のための勉強」に遊びを犠牲にするのが嫌になったんです。
当然成績も悪く、高2の夏休み前に、国語教師の恩師でもある石上先生から
「勉強合宿に来なさい」と呼び出され、渋々参加することになりました。
持っていった勉強道具は、夏休みの宿題にでた古典文法の薄い問題集のみ。

――合宿先ではどうでしたか。

高橋:合宿先では石上先生が古典の基礎を1対1で5時間みっちり教えてくれました。
でも、やる気のない私は適当に聞き流してしまい…。
問題集の3分の1の解説が終わったところで「あとは自分でやりなさい」と言われたときには、何一つ取り組めないというありさまでした。

勉強は嫌だけど、先生のことは尊敬していたし
「この問題集すらやらなかったら美大すら無理だろう」と思ったんです。
そこで、先生に「すみません、聞いてなかったので解けません…」と正直に謝ったら、
想定外の反応が待っていました。
「きみに勉強する資格なんてない。さっさと出ていきなさい」
いつも穏やかな先生に、こんな風に怒鳴られたのは初めてで、茫然と立ち尽くしました。

これはまずいと性根入れ直して謝ったところ、
今度は10時間くらい、つきっきりで古文を教えてくれました。
合宿最終日に先生からテストを出され、内容は、源氏物語の冒頭3行を現代語訳するというものでした。
結果は満点!
先生から「完璧じゃない。できんじゃんよ。」と肩を叩かれたとき、
「私でもやればできるんだ!」とスイッチが入りました。

――それは嬉しいですね…!

高橋:これまで学年最下位に近い成績だった私が
成績が上がったところを先生に見せたい一心で巻き返しをはかります。
まずは夏休み明けの実力テストで古文だけ満点を取れたんです。
そこから、他教科もがんばろうと燃え始め、平均3、4時間の睡眠時間でで猛勉強しました。
石上先生から「今度は学年トップを取ってごらんよ」と言われたのを機に、
通知表のコピーに、2、3学期の目標の評定数値を書いて壁に貼り、
それを励みに勉強していましたね。
その結果、学年末には167位中1位という、学年トップの座を得ることができました。
そのときは回りの音が何も聞こえないくらい驚いたのを今でも覚えています。

――なんて驚異的な追い上げ!

高橋:この経験から「わかった!」という感動を伝えられる人になりたいと思い、
国語教師を目指すようになったんです。
ところが、目標の存在である石上先生にそのことを報告したら
「君にはなれないよ」と真顔で言われて…。
応援してくれると思っていたので、雷に打たれたみたいにショックでしたね。
「こうなったら君ならできるって言わせたい!」と、負けず嫌いスイッチがONになったんです(笑)

国語教師を目指せる国公立ということで國學院大学を目指すものの、結果は不合格。
短大に入れば成績優秀者は大学に編入できると知って、短大に入るのですが、
栃木県の田んぼに囲まれた環境での寮生活に最初は大きな挫折感を覚えました。
東京での大学生活を夢見ていたのに…って。
でも、渋谷にある國學院の大学に行くという決心は揺らがず、首席で大学へ編入しました。

――ここでも負けず嫌いのスイッチがONになったのですね!

高橋:そうなんです笑 
自分のバックグラウンドから、私立の中高一貫女子高の先生になりたいと思っていました。
ですが、東京の私立は非常に狭き門。
国語の専任講師枠1名に対し、200名が受験するというのはざら。
最初は、私立女子校の非常勤講師と、日能研という塾の講師という二足の草鞋の生活でした。
忙しくて毎日へとへとでしたが、子どもたちと接するのは本当に楽しいし、
これもいい経験だと思って乗り切っていましたね。

――多忙だけれどやりがいのある日々だったのですね。
国語教育の研究で大学院に行かれたのはその頃ですか。

高橋:ある日突然、「東京学芸大学院」という言葉が頭に飛び込んできたんです。
これまで縁もゆかりもなかったし、大学院を検討していたわけでもなかった。
あまりにも頭にちらつくのでHPを調べたら、国語教育学科という学科を発見し、願書を出すことに。
特にこれを研究したいという強い思いがあったわけではないのですが
「受験するなら100%の力で臨みたい」と思い、半月の間、夜中まで勉強して
志望理由書を書きました。
合格通知書が届いたときには、信じられなかったですね。
そこから非常勤講師と大学院生の二足の草鞋になります。

高橋:横浜国立大学附属横浜中学校で働く機会が舞い込んできたんです。
それは、大学院で知り合った非常に優秀な先輩である細川さん(現、東京学芸大学講師)からの一本の電話。
同じ日能研の講師だったこともあり仲良くしていたのですが、
突然「横国の非常勤講師をしないか」とオファーをいただいたんです。
研究指定校なので特殊な授業研究にふれ、貴重な経験ができるからって。
最初はできっこないと思って断りましたが、
石上先生から「即やりなさい」と言われて引き受けることに(笑)
細川さんから「君だから薦めたんだよ」という言葉をいただいたのも後押しになりました。

ところが授業初日に生徒から予想外の反応がきたんです。
「先生の授業、超つまんない」
「これってやる意味あるんですか」
という言葉のオンパレード。
附属小時代からベテラン教師陣のディスカッションなどを取り入れた、創意工夫された授業を受けてきた目が肥えている生徒からしたら、私の授業なんてそりゃつまらなかったんでしょうね。
教科ごとに用意された職員室に戻ると、国語教師歴20年、30年というベテラン教師ばかり。
「これは一年ももたないかも…」と初日で思いましたね。
当時毎日のように母親に「しんどい、やめたい」って電話してましたから。

☆後編につづく☆
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2015年03月01日

「好き」に忠実に生きるデザイナー・モデリスト file.62(後編)

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☆前編はこちら☆

ーーそこまで女性が多いとは…!
専門学校でオートクチュールを学ぶことにした決め手は何でしたか。

ササキ:パターンと縫製の両方を学べると思ったからです。
服をお客様に届けるまでのフローを大まかに表すと
企画→デザイン(企画の具現化)→パターン(服の設計図といえる型紙を作る)
→縫製(型紙を形にする)→デザイナーのチェックを受ける→生産管理(量産製造)→販売
という流れがあります。
デザインはセンスが大きく問われますが、
パターンと縫製は技術職なので経験を早くから積むことでしっかり習得できると思ったんです。
そして、どれだけセンスがあってもビジネスとしてやるなら、
経済的成功という側面はついて回ります。
そういうビジネスの世界でいかに信念を持ち続けるかが大事だと思っています。
アーティストとデザイナーって似て非なるものなんです。
前者は、例えば岡村太郎さんみたいに、その人自身の作品に価値を見出すのに対し、
後者は、顧客のニーズ起点で価値をつくり出していくので。
サンプル工場で働いていたときは、
朝早くから夜遅くまで働いても一人暮らしだったので、
なんとか生活ができる程度という、一見過酷な状況でした。
でも、生地や糸など自由に得られるし、先輩方からアドバイスももらえるし、苦ではなかったですね。
服をつくる能力が得られるならそれでよかった。
社長はそのときから今もずっと憧れの存在ですし。

ーーどんなところに憧れているのですか。

ササキ:自分の名前で仕事がきているというところですね。
80年代のバブルと呼ばれている頃ならアパレル業界も花形な業界で羽振りがよかったのですが、
現在は、服へのこだわりは高まるのに、工賃はあまり変わらない、
国内の服飾は淘汰される一方。
そんな中、個人で服飾の会社を継続できていること自体がすごいことなんです。
社長は一見癖はあるけれど、人情にあふれた人。
あの人が私自身の殻を破ってくれたので本当に感謝しています。
学力的な頭の良さと、社会的な頭の良さはまた別物で、
生きていく上では後者が大事だということを教えて下さいました。
自分の価値観と物事を見る視点の多様性を教えてくれた尊敬する人です。
今も仕事の依頼をさせていただくこともありますし、
仕事の有無にかかわらず、時間を見つけては挨拶に伺っています。

ーー毎月ですか。
ササキさんは人とのご縁を大切にされている方なのだろうなぁという印象です。

ササキ:大事にするのが当たり前という感覚があります。
お互い人間ですので、自分とは合わない方もいますが、
この人とご縁があってよかったと思える人の方がたくさんいますね。
専門学校でお世話になった、舞台衣装と色彩を専門にされている先生は、
私が専門学校で講師を始めたとき、私のことを覚えてくれていて。
衣装づくりの仕事をくれることもあります。
企画を教えてくれた先生は、レザーの服のサイズ調整の仕事を下さることもあれば、
逆に私がいっぱいいっぱいなときに仕事の依頼を受けてくださることもあります。
これまで色んな人たちに助けてもらっているので、本当にありがたいですね。
一人でできることは限られていますから。
窮地に陥ったときは「助けてくれるだろう」と待つのではなく、
自ら「助けて」と声を出さなきゃいけないということも学びました。
その一方で、納期までに完成させることは絶対だし、
自己責任の世界といえます。それが面白さでもあるんですが。

ーー助けを求め、支え合うことと、自分で責任と覚悟をもつこと。
その両方が大事なのですね。
この仕事をされていて一番「やっててよかった」と感じるのはどんなときですか。

ササキ:お客さんから「今回もありがとう」「助かったよ」という言葉をいただいたときですかね。
人から求められることは「意味がある」ということ。
分業の仕事だとその「意味」が見えづらくなってしまいます。
自分が関わる意味を見出し、楽しもうという気持ちで臨んでいれば、
必然的に人の役に立つのだと思っています。

ーーササキさんの「信念」は何ですか。

ササキ:「いい意味でワガママに」ですね。
服をつくり続けながら、他の仕事もして、
経済的にも精神的にも「個で立つ自分」でありたいという思いが強いです。
私はあえて「居心地のよくないアウェイな空間」に行くようにしています。
緊張感をもてますし、色々な価値観にふれることができる。
居心地のいい場所にばかりいると、どこかで馴れ合いが生じてしまいますから。

ーー今後の目標や挑戦したいことを教えていただけますか。

ササキ:自分の作品をもっと多くの方に見ていただけるようになることです。
専門学校教員時代に、高校生に向けてアクセサリーや小物をつくる
模擬授業(ワークショップ)を担当したのをはじめ、
色んな経験をさせてもらっているので、
今後はもっと自分の作品を見てもらえるようにしていけたらと思います。

ーーこうした強いモチベーションの源泉は何なのでしょう?

ササキ:20歳のとき交通事故で九死に一生を得たことが大きく影響していると思います。
友人の車の助手席に乗っていたのですが、運転に慣れていなかったのもあって、
強引に右折してしまった為、直進車両との衝突事故を経験しました。
助手席に乗車していた為、アバラ骨骨折などの大ケガを負いました。
そのときの記憶は強く残っています。
幸い脳の損傷などもなく、こうして回復して生きていますが、
たまに「このまま寝たら死ぬのでは」と思うことがあります。
ということは「生きてるだけでラッキー」なんです。
生きていることが当たり前ではない、死生観を意識しながら生きているので、
つらくとも「あのときに比べたら何とでもなる」という思いがあります。

☆☆☆☆☆

英語に down to earth という言葉がある。
「地に足がついた、現実的な」という意味だが、
ササキさんのお話を伺って、真っ先にこの言葉が浮かんだ。

高校時代にファッション甲子園に応募するなど、
自分の好きなことを早くから見極めて力を注ぐ姿に感銘を受けた。

どんな経験も糧にし、着実に夢を現実に変えていく。
実績と信頼を積み上げながら、自分の軌跡を残していく。
そんな勇気と真摯さを、感じずにはいられなかった。

好きなことを「持続可能」にすること。
そのために、自立した自分らしいワークスタイル、ライフスタイルを模索する大切さを、
彼の信念や考え方から学ばせていただいた。

彼が今後どんな作品を生み出していかれるのか、
展示会が今から待ち遠しくてたまらない。
posted by メイリー at 17:22| インタビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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